真水稔生の『ソフビ大好き!』 



第56回 「怪獣の形」 2008.9 

ちょっと探し物があり、押入れの奥をあさっていたら、
卒業アルバムとか通知表とか、子供の頃のものが入れてあるダンボール箱の中から、
汚れて黄ばんだ数枚の紙切れが出てきた。

古い使用済みのカレンダーをB5サイズくらいの大きさに裁断したものだったが、
その裏面には、
自分で考えたオリジナル(と言っても明らかに模倣(笑))の怪獣や怪人の絵が描いてあった。 
小学校の低学年の頃に描いたものだ。

僕と同世代の男性なら、みんな経験があると思うが、
子供の頃はよくそうやって自分で怪獣を考えては、絵に描いていたものだ。
 
あまりに懐かしく目頭が熱くなってしまったが、
ふと、或る事を思い出した。
『宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン』における、登場怪獣のデザイン公募である。

あれには、
ものすごく胸がときめいた。
採用されれば自分の考えた怪獣がテレビに登場してスペクトルマンと戦うのだ。
応募しないわけがない。
台所仕事をしていた母親をテレビの前に呼び、応募先の住所をメモしてもらい、
僕は期待と夢に胸をふくらませながら、
怪獣の絵を葉書に描いた。
ゴジラみたいな怪獣でなんとかザウルス、って名前にしたと思う。
確か、
紺色っぽい色を主体にして(たぶんゴジラのソフビから来たイメージ)、
色鉛筆とクレヨンを使って一生懸命描いた記憶がある。
 
残念ながら採用はされなかったが、僕はちっともガッカリしなかった。
自分が描いた怪獣が落選したショックよりも、
採用された怪獣の見事な “出来” に受けた感銘の方が、はるかに大きかったからである。
とても勝負にならない、と思った。
 
採用されたのは、ダンプニクラスという怪獣。
ダンプカーにひき逃げされた人間の怨念が生み出す霊魂の怪獣で、
番組ではダンプカーではなくスポーツカーが使用されたため
クルマニクラスという名前に変更されたが、

 採用されるべくして採用された作品だなぁ・・・、

と子供心に思った事を、はっきりと憶えている。
 
ひき逃げされた恨みや悲しみ、
そして、交通事故そのものの痛々しさが
わかりやすく、かつ、デリケートに表現されたそのデザイン・造形は、
何か猛烈な弾性エネルギーを思い切りぶつけられたようで、
とても衝撃的だった。
 
あの時初めて、
僕は、“怪獣” というものは人間が考えて生み出すものだという事を実感した。
 
ゴジラもモスラも、
ガメラもギャオスも、
ガラモンもカネゴンも、
ゴモラもレッドキングもバルタン星人も、
物心ついた頃からみんな当たり前のように存在していたから、
それまで気づかずにいたのだが、
怪獣の姿形は、人間の感情や感性によって創造されるものなのだ。
 
クルマニクラスのような特異な姿の怪獣を、
プロではなくて、番組を見ている僕と同じ一般の子供が考えた、という驚きが、
僕に “怪獣の形” というものを強く意識させてくれたのである。
 
以来、僕は、
テレビや映画で新しい怪獣と出会うたび、
ただ憧れたり、ただ恐がったりするだけでなく、
その怪獣の姿形、デザイン・造形に興味を持つようになった。
 
 この怪獣は、なんでこんな姿をしているのだろう?
 この怪獣を考えた人は、どんな事を思いながらこの形にしたのだろう?

そんな事ばかり気にするようになった。
 
四十過ぎのオッサンになった現在でも、それは気になる。ずっと考えている。
怪獣の形を理屈で追うなんて事は
もちろんナンセンスだが、
外形から、内面の意味や理由、そしてその精神性などをさぐっていくと、

 怪獣はどうして魅力的なのか、
 どうして僕は怪獣が好きなのか、

という、自分自身の嗜好や生理を客観的に見直す事が出来、面白いのである。
 

なにも特別奇抜な姿形をしていなくても、怪獣は魅力的だ。
たとえば、
恐竜そのものの形であったり、
現存する生き物がただ巨大化しただけの姿であったりしても、
そのデザイン・造形には、
夢やロマン、あるいは、迫力や哀愁、といったものが滲み出る。
 
人間が空想の世界で生み出す架空の生き物であるがゆえ、
恐くても可愛くても、
強くても弱くても、
必ず、怪獣の姿形には、
生み出した人の “美意識” と “感受性” が現れるからである。
 
今更ながら、つくづく、怪獣とは魅力的なものである。
 


そこで今回は、
僕が幼い頃、特に惹かれた異様で美しい姿形の怪獣を、
デザインや造形が生まれた経緯とともに紹介しながら、
その怪獣のソフビ人形の味わいについて、述べさせてもらう事にする。
 
まずは、
やはりクルマニクラスから。

先述したように、一般視聴者が考え出したデザインなので、
ほかのスペクトルマン怪獣とは少し趣が異なる。

生理的な嫌悪は抱かせないし、
クールで落ち着いた雰囲気があるので、
スペクトルマン怪獣の特徴である “開き直ったかのような品の無さ” が、
あまり感じられないのである。

だが、その違和感は、
今までの公害怪獣のようにゴリが作ったものではない、という、
物語上の設定とも理屈が合っていて、
クルマニクラスという怪獣そのものにリアリティと説得力を与えているのだ。
 
それは、ソフビ人形にもよく現れていて、
クルマニクラス人形は、
ほかのスペクトルマン怪獣の人形とは一線を画す出来ばえの良さで、
ソフビ人形化に当たっての、造形コンセプトの明らかな違いが感じられる。 

 マスダヤ製。 
 全長約22センチ。

 幻想的でありながら、
 決して嘘っぽくない不思議な姿、
 そんな実物のクルマニクラスの魅力を、
 見事なまでに楽しく再現。
 
 本当にマスダヤが作ったの?
 って思うくらい(笑)、傑出した出来。素晴らしい。

以前、
第4回「身震いするほど夢を見る〜増田屋スペクトルマンの魅力〜」の中でも述べたが、
スペクトルマン怪獣は
安っぽくてえげつないものが多く、
マスダヤがその野暮ったい造形センスで人形にすると、
運命的とも言える生理の一致によって、独特の “味” を醸し出す。
でも、
このクルマニクラスだけは例外で、
一生懸命怪獣のデザインを考えた子の夢見る気持ちに応えるべく、
実に丁寧な仕事がしてあり、
マスダヤ独特の粗野で無神経なタッチが抑制されている。
派手なデフォルメは極力控え、
実物のイメージが大切に造形されているし、
彩色の面でも、
くるみ塗装した上から体の模様をひとつひとつ塗る、という凝り様なのだ。

手間ひまかけてあるモノには、やはり真心を感じてしまう。
子供たちの交通安全を願う気持ちが、人形に宿っている気さえする。
“たすき” に書かれた言葉が、更にその印象を強めている。
実物のクルマニクラスは
こんな “たすき” は掛けていないが、
ひき逃げ犯に対する憎しみ” という、
クルマニクラスの本来のコンセプトが、
子供たちを交通事故から守りたい” という、
祈るような願いのメッセージに
巧くすり替えてあって、
マスダヤの、
玩具メーカーとしての配慮と良識も窺える。
 
だけど、
実は、この “たすき” が、
コレクター泣かせの、なんともやっかいな代物なのである。
ペラペラの薄い紙で出来ていて非常に破れ易いものであるがゆえ、
袋入りのデッドストック品でない限り、まず、紛失してしまっているのだ。
僕も、コレクションを始めてから、
ちゃんと “たすき” をしているこの人形に出逢うまでには、かなり時間がかかった。
こんなペラペラな紙切れ一枚のために、どれほど苦労したことか。
 
お札や小切手、証明書や契約書、請求書や領収証、婚姻届や離婚届、
あるいは、
ティッシュパペーパーやトイレットペーパーに至るまで、
紙切れ一枚で、人間の生活や精神状態は一変する。
偉そうな事を言ったって、
紙切れ1枚が有るか無いかで、人間の暮らしは左右されるのである。
クルマニクラス人形の
このペラペラの紙で出来た “たすき” には、
人間社会に対する、そんな風刺も含まれているのだ(ウソ)。
 
それは大袈裟な冗談だとしても、
このペラペラの紙で出来た “たすき” に、僕が振り回されたのは事実。
完品を揃えたい、
というコレクターとしての心情からすれば、
実物のクルマニクラスがしていない “たすき” のせいで
クルマニクラス人形がコレクションに加えられない現状は、
余計に口惜しいものであり、
ただ単に入手が困難な事に嘆く気持ち+α な、“もどかしさ” があったのである。
 
あぁ、入手出来て良かった。
神様、ありがとう。



次は 『ウルトラマン』 から、
佐々木守・実相寺昭雄コンビの名作『故郷は地球』に登場した、
棲星怪獣ジャミラ
 
ガヴァドンやシーボーズなど、実相寺監督の回の怪獣たちは、
どれも弱くてヘンテコなものばかりで、子供にはあまり人気がなかったと思うが、
唯一、例外だったのが、ジャミラではないだろうか。
 
この『故郷は地球』という物語は、
今でこそ、
『ウルトラマン』をよく知らない人に作品の奥深さを教えてあげるために見せる、
最も有効的なエピソードとして重宝しているが、
子供の頃は
暗い雰囲気で、なんだか難解で、
なんとなくジャミラが可哀想・・・、くらいの感想しか持てなかった回である。
好きじゃない、と言うより、
子供には良さがよく理解出来ない回だったのだ。
 
だが、
ジャミラそのものの姿形は、
僕ら子供にも
リアルタイムではっきりとその魅力が理解出来るものだった。
僕と同世代の男性なら、
シャツやセーターの襟を頭にかぶせて
ジャミラの真似をした経験が誰にもあるだろう。
 
着ぐるみの中に人が入る前提で、
その限界に挑んだデザインであったため、
そんな、子供が真似して遊びたくなるような、ユニークな造形が誕生したのだろう。
アニメやCGでは、おそらく辿り着いていないデザイン・造形であり、
ジャミラは、まさに、時代が生んだ “楽しさ” がある怪獣、と言えよう。
 
また、
ジャミラの姿には、
自分を見捨てた人類に対する怨みや、人間という生き物の醜い内面性が、
呪いの如く湧き出たように表現されているのだが、
見る者が不快感をおぼえるようなものには、決してしてなっていない。
そこが凄い。
デザインした成田亨さんの、
“単なる人間の変形で、見る者の嫌悪感をかきたてるようなものは作らない”
という芸術家としての誇りと、
“怪獣” という夢の生き物をテレビの前の子供たちに届ける責任感が、
ジャミラの “闇” を “美” に変異させているのだろう。
人間が創造する生き物であるからこそ感じる事が出来る、 “絶妙な美” である。
 
 ブルマァク製。全長約21センチ。

 デフォルメを施しながらも、
 バランス感を重視して全体のフォルムを綺麗にまとめあげ、
 更には、
 着ぐるみに見られる “弛み” や “覗き穴” まで再現して、
 実物のジャミラに努めて忠実に造形されている。
 それは、
 ブルマァク独自の作風が
 この時期完成した事の “宣言” のようでもある。
 
 先述した、実物のジャミラの “絶妙な美” を、
 “子供のオモチャ” という目的が更に進化させた、
 究極のソフビ怪獣人形だと思う。
 
 
  
  ジャミラのような哀しくて醜いはずの怪獣が、“絶妙な美” を持つ楽しい形でデザイン・造形され、
  また、それがオモチャとして子供たちに愛されるよう、
  更に愛嬌ある姿にアレンジされているのだから、実に深い成り立ちの人形だと言える。
  ここまで完成度の高い造形なら、
  世代が違う人たちにも、
  ブルマァク怪獣の素晴らしさが理解してもらえるのではないだろうか。




こちらは、
現在のバンダイ・ウルトラ怪獣シリーズのジャミラ人形(全長約17センチ)。
言わずと知れた、着ぐるみにそっくりなリアル造形である。

だが、
水の無い星で生き延びた事による体質変化を表す、
ジャミラの乾燥してささくれ立ったような皮膚の感じは、
ソフトビニールという湿った触感の材質のため、残念ながら巧く再現出来ていない。
よって、
ソフビ怪獣人形にリアルさだけを追求する事の、限界やそもそもの必要性を考えさせられてしまう。

外形のカッコよさだけにこだわっても、結局ここまでなら、
むしろ、
“絶妙な美” を内面から昇華させた
ブルマァクのジャミラ人形の方が、
ある意味 “リアル” である、とは言えないだろうか。

どちらの見た目が実物のジャミラに似ているか、
という観点なら、
間違いなく現在のバンダイ製人形に軍配が上がるが、
どちらが実物のジャミラの魅力をオモチャとして表現しているか、
という観点なら、
圧倒的に、当時のブルマァク製人形の方が優れている、と僕は思う。
 
 
脳天から後頭部にかけてのラインが、お気に入り。
好きな音楽をかけてお酒を飲みながら、
このジャミラ人形の頭部を
指の腹でそっと撫でるひとときが、
僕のやすらぎの時間(笑)。



次は、
映画『ガメラ対大悪獣ギロン』に登場したギロン

脚本を担当した高橋二三さんは、
ギロンという怪獣を “体中が武器” になっている恐ろしい怪獣として、物語を書き上げた。
イメージしていたのは、
体のあらゆる箇所からミサイルだの光線だのが飛び出す怪獣だったそうである。

ところが、
怪獣をデザインして着ぐるみを作る側のスタッフは、
この “体中が武器” というのを “体全体が武器” と解釈し、
体全体で何か武器を表す姿形の怪獣をイメージしてしまった。
しかも、
武器にはミサイル砲や光線銃ではなく、刃物が選ばれ、
あの、包丁に手足がはえたような姿の怪獣が誕生したのである。

 
大人なら思わず吹き出してしまう造形かもしれない。
なんたって包丁の怪獣なのだから(笑)。
でも、
僕ら当時の子供たちには、まぎれもなく恐ろしい怪獣に映った。
刃物という原始的な武器は、
ミサイルとか光線とかの近代的な武器よりも、むしろインパクトがあり、
リアルな恐怖で子供心を煽る事となったのである。

ガメラよりも強いンじゃないか、
今度ばかりはガメラも勝てないンじゃないか、って本気で心配した。

そんな凄い新怪獣ギロンに
緑色の血を流しながらも立ち向かうガメラを、
幼い僕は劇場で力いっぱい応援した。

あの時の興奮を忘れないでいたい。
冗談でもウケ狙いでもなく、
 「ギロンがカッコいい」と
照れずに真っ直ぐな気持ちで言える大人で居続けたい。
僕だけでなく、
僕と同世代で本当に怪獣が好きな人なら、誰もがそう思っている事だろう。
だって、
ギロンを心からカッコいいと思えるのは、
僕らの世代だけかもしれないのだから。

ゆえに、
ギロンのそのユニークな姿形に、
怪獣という生き物の本質があるような気がする、今日この頃である。
 写真の人形は、
 日東科学教材から当時発売されていたもので、
 向かって左から、
 約24センチ、約13センチ、約10センチ。

 
 すべてのサイズが
 共通のポーズで共通のカラーリング、
 という怪獣人形も珍しい。
 こうして並んだ写真を見ると、
 なんだか、
 包丁3点セットのカタログみたい(笑)。
   当時としては、
   なかなかリアルな造形のソフビ人形であり、
   ギロンのカッコよさを賛美する子供たちの気持ちを
   決して裏切らない、
   見事な一品であると思う。
   中でも、やはり、
   スタンダードサイズである、この約24センチのものが、
   いちばん迫力があってカッコいい。



怪獣は、本当に素晴らしい。
怪獣ほど素敵な生き物はいないだろう。
こんなにも魅力的なキャラクターたちの栄枯盛衰に、
子供の目と心をもって
リアルタイムで立ち合えた(それもソフビ人形片手に)のは、とても幸せな事である。

結局、毎回同じ結論に達してしまうのだが、
特撮世代・怪獣世代で本当に良かった、としみじみ思う。
感謝、感謝。
 


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