第30回 「男にとって女は怪獣のようなものだ」 2006.7
美輪明宏さんの本を読んでいたら、おもしろい事が書いてあった。
やさしくて繊細で、保護本能をそそるような、いじらしくて、
手をさし伸べたくなるようなあやうさがあって、
はかなくて、そのうえしっかりしていて芯が強くて、
明るくて思いやりがあって、よく気がついて、
ロマンチックでセンチメンタルでかわいくって・・・、
という“女”は、
男が勝手に作り出した架空の生き物、
との事。
なるほどそうだ。
確かに、
女というのは、冷淡なくらい現実的で、無神経な生き物である。
芸術との関わり方ひとつ見てみても、
たとえば、
美しい音楽を作る事や演奏する事に秀でた人は男である場合が多いし、
それを聴いて涙したり時には人生が変わってしまったり、
感動して影響を受ける度合いも、男の方が女よりもずっと激しい。
日常生活においても、
掃除や整理整頓を、神経質なまでにきちんとやらないと気が済まないのは、
ほとんど男だし、
車の運転に至っては、
女の人から優しさや細やかな心配りを感じる事は皆無に近い。
男よりも繊細な女なんて、いないのである。
それもそのはず、
そういう女は架空の生き物だったのだから。
更にその本には、
男は、グジュグジュしていて優柔不断で劣等感が強くて、マイナス志向で、
風邪ひとつひいても死ぬような騒ぎをするし、
繊細すぎてこわれやすいガラス細工みたいで、小さなことにもクヨクヨする、
とも書いてある。
これもその通り。
精神的には、断然、女の方がタフである。強靭である。立派である。
男はひ弱で頼りないから、
神様が、せめてこれくらいは、と“腕力”を与えてくれたのである。
なまじっか腕力があるばっかりに、男には “強い” というイメージがついてしまっているが、
これは錯覚である。
たくましく生きていく力は女の方が優れている。
意気地が無く弱々しい事を指す “めめしい” という言葉を、
漢字では “女々しい” と書く。
フェミニストと呼ばれる人達はこれを「女性蔑視だ」と批判するが、
僕はそうは思わない。
それは、
“女々しい” という言葉が男に限った言葉だからである。
意気地が無く弱々しい女など、この世には存在しない。
“女々しい” という形容は、男にしか該当しないのである。
“女” という字を使って
意気地が無く弱々しい事を表しているのではなく、
“女” という字で男を形容する事によって
“否定” の意味を持たせ、
男が決してイメージ通りの強い生き物でない事を表しているのである。
恋愛を例に出せばわかりやすい。
女は、
「あなた無しでは生きていけないわ」
なんて目を潤ませながら言ってたくせに、
別れたらすぐに気持ちを切り替え、
また次の日から平然と前向きに生きていく事が出来る。
だが、男は違う。
ひとたび女と別れたりしたら、
落ち込み、悲しみ、孤独に押しつぶされ、
いつまでもその恋愛を引きずり、
立ち止まったままか、もしくは後ろ向きにイジケて生きていく事しか出来ない。
自分自身を省みても周りを見渡してみても、例外は無い。
復縁も、
女側が言い出した場合は、
男側がそれを受け入れるケースが多いが、
逆に男側が言い出した場合は、
必ずといっていいくらい女側はそれを拒否する。
「あなたとの事はもう終わった事」
などという、
男には信じられないほど冷たく強い意志で。
女の方が “生きる” という事に関してはシビアであり、賢いのだ。
情に流されたりもしないし、
夢ばかり見て現実から逃げようとしたりもしない。
それが生きていく上で無駄な事だとわかっているからだ。
確かに、夢やロマンや情といったものは、人間が生きてく上で必要最低限のものではないかもしれない。
だけど、
そうだとわかっていても、
無駄だといってスパッと切り離せないのが男なのである。
女にも夢やロマンや情が無いわけではないが、
生きてくためにそれを捨てる精神的強さが、女にはあるのだ。
そんな生き物である女が、女々しいわけがない。
女々しいのは男だけである。
男と女の性質を表す漢字はほかにもある。
“嬲る” という漢字、
これも実によく出来ている。
女はずぶとい。だから女々しい男に勝ち目は無い。
男が女を思い通りにするには、
腕力にものを言わせて複数でよってたかってイジめて、無理矢理優位に立つしかないのである。
“嬲る” というのは、
女々しい男の恥ずべき行為だが、その漢字から男と女の力関係がはっきりとわかる。
“女々しい” にしろ “嬲る” にしろ、男と女の本質を見事に物語っている。
男らしい男も、
女らしい女も、
この世には存在しないのだ。
だから、
女が “男ならこうあるべき” と思う事は、
男にとってはかなり無理しないと出来ない事であり、
同じように、
男が “女ならこうあるべき” と思う事は、
女にとってはかなり無理しないと出来ない事なのである。
男と女が、
そういったお互いの資質の違いを正しく理解した上で、
相手を思いやる気持ちを持てば、男と女の間に争いごとは起き難くなる。
好きで一緒になった者同士が “別離” を考える事も少なくなるだろう。
だが、それは無理だ。
なぜなら、
前述したように、女は無神経だからである。
女は男の資質になど理解をしめさない。そういう生き物だから仕方が無いのだ。
男と女がいつまでも仲良くいるためには、
相手が架空の生き物ではなく現実に存在する女なのだ、と
男が一方的に肝に銘じておくしかない。
女は強いから男がいなくても生きていけるが、男は弱いから女がいなければ生きていけない。
だから、男が折れて我慢するしかないのだ。
男が女に嫌われないためには、
女々しさを出さぬよう、甘えぬよう、常に気を張っていなければならない。
・・・男ってつらいなぁ(笑)。
そこで僕が思うのは、
男にとって女は怪獣のようなものではないか、という事である。
女と怪獣はとてもよく似ている。
一般に、男の子は怪獣が好きである。物心付く前からすでに。生理的に。
異形な姿、あるいは強さや破壊力に憧れ、
怒りや哀愁を共感し、その存在を愛してやまない。
だが、
実際に怪獣が現れて街を破壊し、平和な生活をおびやかしたら、
そんなものを愛していられるわけがない。
怪獣は、あくまでも架空の生き物だから素敵なのである。
女も同じ。
架空の存在の時は素敵だが、
現実に存在する女と向き合った時、男の甘ったるい夢はぶち壊される。
それを理解した上で、それに耐えられる度量のデカい男だけが、
女を愛する資格を持ち、女を幸せに出来るのである。
僕が心に思い描く理想の女性は、
映画『釣りバカ日誌』で
石田えりさんや浅田美代子さんが演じていらっしゃる “みち子さん” や
サスペンスドラマの人気シリーズ『地方記者 立花陽介』で
森口瑶子さんが演じていらっしゃる “久美さん” のような、
芯はしっかりしてるけど、なんだかふわ〜っとやさしくて、
いじらしくて可愛らしくて、
夫への愛に満ち溢れた女性である。
みち子さんも久美さんも、
映画やテレビドラマの中には存在するが、実際にはいない。
ゴジラやレッドキングと同じ。
まさに、怪獣なのである。
幼い頃、遊園地のシルバー仮面ショーで、
司会のお姉さんたちがキルギス星人を踏みつけたのを見て以来、
女性に対して憧憬と憎悪という二つの感情が
矛盾しながら心の中に存在するようになってしまった僕は、
思春期に、
その矛盾の溝を埋めるために、
高慢ちきな美女が凌辱される団鬼六先生の官能小説をむさぼるように読んで
その世界に浸ったが(第16回「エロチズム〜キルギス星人の復讐〜」参照)、
怪獣の人形を集める行為は、
団先生の小説を読む行為と同じ感情によるものかもしれない。
夢を見ていたいのだ。
怪獣なんて実際にいないけど、その存在を愛したい。
「ゆるしてェ、かんにんしてェ」なんて女性も実際にはいないけど、その存在を愛したい。
そういう事だ。
子供の頃の思い出に対する郷愁、
ソフビ怪獣人形という玩具そのものの奥深い魅力、
持って生まれた収集癖・・・、
コレクターになった要因はいくつかあるが、
そもそも、
いつまでも夢見ていたい、
などという、
男ならではの女々しさが根底にあるから、
思い出に執着したり、
子供の頃のオモチャなんかを愛したりするのだと思う。
コレクターという種類の人間のほとんどが
女ではなく男である事からも、それは明白である。
ただ、いつまでも夢見たい男の目線で一緒に夢を見てくれる女なんていないので、
女とうまくやっていくには、
自分の夢は夢として胸の奥にしまい、
あくまでも女の目線で、一緒に現実を生きる心の広さが男には必要なのである。
男がかよわい生き物だなんて、女は絶対理解してくれない。
男はかよわい女を守るべき、って一方的に思っているのだ。
シーモンスとシーゴラスのおしどり夫婦人形。ブルマァク製スタンダードサイズ。
夫であるシーゴラスの人形は、実物のシーゴラスよりもずんぐりしたフォルムで、
妻である四足のシーモンスにイメージを近づけて造形されている。
夫が妻に合わせる事が夫婦円満の秘訣、という男と女の本質をわきまえた原型士の、
このオモチャを手にする男の子に向けたメッセージを感じずにはいられない(笑)。
北斗星司と南夕子が合体して変身するウルトラマンエース。 つまり、男女の性を超越した超人である。 成田亨さんがデザインしたウルトラマンの顔は、 初期のギリシア彫刻に見られるアルカイック・スマイルがコンセプト。 よって、その兄弟たちはみんな、 菩薩のように薄っすらと微笑んでいるように見える。 とくにエースは、“性の超越”という観点からも菩薩のイメージが強いので、 名実ともに、ウルトラ兄弟のエース、であったと言える。 しかも、戦う相手が“超獣”という、怪獣(女)よりも強い生き物で、 ほかのウルトラマンよりも格上な設定だった。 写真のウルトラマンエース人形は、ブルマァクの450円サイズ。 結婚していた頃に、骨董市で見つけて購入し、帰宅後喜んで妻に自慢した。 すると、 「いくらしたの?」 と聞かれたので正直に答えたら、 「高っ!!」 と一蹴された。 男と女の価値観が違う事を僕が初めて悟った記念すべき人形(笑)。 |
しかしながら、
僕は女が好き。怪獣が好き。
架空の生き物だとわかっていても、
女や怪獣に夢見る事が無駄だとも無意味だとも思わない。思えない。思いたくない。
だって僕は男だから。
・・・と、
ここまでは、男は女を愛するものだという前提で僕の考えを述べてきたが、
御存知のように、
男の中にも女を愛せない人がいる。
“ゲイ(またはオカマ)” と呼ばれる人たちである。
僕自身は違うけれども、
無視する事は出来ないので、最後に少し触れておこう。
美輪さんがよくおっしゃっているように、
同性愛は別に不思議な事でもなければ非難されるべき事でもない。
戦国武将が小姓を寵愛した歴史もあるように、ずっとずっと昔から存在する人間同士の愛の形のひとつだ。
性癖や趣味といったものは様々である。
そもそも、
無神経で冷淡な生き物だとわかっていても女を求める男の方が、矛盾しているのかもしれない。
先ほど「男の子は怪獣が好きだ」と述べたが、
怪獣になど、さほど興味を示さぬ冷静な男の子だっている。
女に興味が無いゲイの人たちは
それに相当するだろう。
だが、
恋愛対象としての女に興味がないだけで、
“女” という生き物に全く関心がないわけではない。
むしろ、
ゲイの人たちの方が女を必要としている。
自分自身が “女になりたい” と願っているからだ。
男を愛する、という事は、心が “女” なのである。
ならば、
そんなゲイの人たちにとっては、女は怪獣ではないのだろうか。
ゲイの人たちは、何か悪い事をしたわけでもないのに、
差別と偏見の目で見られ、化け物扱いされて気味悪がられる場合も多い。
愚かな人間は、
自分の理解が及ばないものを恐れて排除しようとするからである。
ちょうど怪獣を攻撃するように。
男が、女を愛さずに自分自身が女になりたいと願ったら、または女になってしまったら、
愚かな人間から化け物扱いされて攻撃される事は必至である。
なんたってそれは女、つまり怪獣なのだから。
だけどゲイの人達は強い。
世間の仕打ちや他人の目に傷つけられても、挫ける事なく、明るく生きている。
あるいは、
自分がゲイである事を隠して、辛抱強く生きている。
心が “女” だからこそ出来る事である。
強いのだ。
女だから、怪獣だから、
愚かな人間の攻撃にも挫けない、孤独にも押しつぶされない、たくましい心を持っているのである。
女を愛したい男にとっても、
女を愛せない男(ゲイ)にとっても、
やはり、女は怪獣のようなものである。
男が “女” と恋愛したり結婚したりする事も、
ゲイの人が自分自身の中にいる “女” を自覚する事も、
架空の生き物なんかじゃない、実際に出現した “怪獣” と向き合う、という事なのだから。
参考文献
『人生ノート』 美輪明宏・著 PARCO出版