第80回 「いつも心に妖怪を」 2010.9
春はあけぼの、夏は化けもの。
これは、
漫画家であり妖怪研究家でもある、水木しげる先生の御言葉であります。
そうです。
夏と言えば、やっぱり、お化け・妖怪の季節ですよねぇ。
今年の夏は、
あまりの暑さに
海水浴に出かける事さえも躊躇してしまう、という、
異常なまでの猛暑日の連続でした。
6月〜8月の平均気温が、
気象庁が統計を開始した明治31年以来、最高の数字を記録したといいますから、
実に、113年間で最も暑い夏だった、というわけです。
しかも、
その勢いで、現在は9月も半ばなのに、まだまだ暑い日が続いております。
ここはひとつ、
水木先生の御言葉を思い出し、
遅ればせながら妖怪の話でもして、残暑を逆手に取って楽しもうではありませんか。
妖怪の事を考えて涼むというのは、なかなか乙なものです。
それに、
「暑い、暑い」と言えるのは、生きている証でもありますから、
霊妙な存在である妖怪について語れば、命のありがたみを再認識する事にも繋がります。
人間、感謝の気持ちを忘れてはいけませんからね。
というわけで、
今回は、妖怪のお話。
・・・と、その前に、
僕の草野球チーム、マミーズであります。
いきなり何だ? 余計に暑苦しいじゃないか! 妖怪の話はどーした?
と思われるでしょうが、
ちゃんと妖怪に関係した話になっておりますので、まぁ、黙ってお付き合い下さい(笑)。
このマミーズ、
なんと来年は結成25周年。
前回、男のロマンという事で趣味・道楽について述べましたが、
このマミーズは、
ソフビ蒐集よりも長く続いている趣味・道楽、ということになります。
まぁ、
一人で出来るスポーツではありませんので、
こんなにも長く続いているのは、仲間たちがいるおかげに違いないのですが、
子供の頃、
野球が大好きなのに全然思い通り出来なかった事に対する、
執念と言うか怨念と言うか、
そんな強い思いが僕の中にはずっとありまして、
それが、
今日まで草野球を続けてきたエネルギー源であったとも思います。
とにかく野球というスポーツに魅せられ、大好きで大好きで仕方なかったのですが、
いかんせんヘタクソなので、
野球部に入っても、友達のチームに入っても、試合にはほとんど出してもらえませんでした。
野球をするという事に対して、
消化不良と言うか、中途半端と言うか、
そんなモヤモヤした不満を抱えたまま僕は大人になってしまったのです。
そこで、
自分が監督になれば、
必ず試合に出られるし、4番も打てるし、ピッチャーだってやれる、と思いつき、
大学4年生の時に作ったチームが、
この、マミーズなのであります。
今にして思えば、
“大学4年生の時” という結成のタイミングは、
社会に出る直前で、
まだまだ遊びたい、大人になんかなりたくない、と
駄々をこねてる心の現れだった気がしますが、
ほかの子より野球をやって楽しんだ記憶が少ない、という不満が、
余計に、
学生時代に未練を残していたンだと思います。
だとしても、
もう四半世紀もやったのだから、
子供の頃よりもたくさん楽しんだだろうし、怨念も晴れただろう?
と思われるかもしれませんが、
まだまだ全然満足出来ていません。
これからもずっと、体が動かなくなるまで続けていきたい、
そう思っています。
大人になってからのハシカは治りが遅い、って言うでしょ?(笑)
名古屋で活動するスポーツ団体のひとつとして、 5年前、中日新聞の市民版で紹介して頂きました。 記念になるので、 切り抜いて大切にファイルしてあります(笑)。 |
ところで、
この “マミーズ” というチーム名なんですが、
どうにもダサくて、僕は全然気に入っていません。
ママさんバレーじゃあるまいし・・・。
もちろん、
僕の苗字の真水(マミズ)をもじったものである事は言うまでもないのですが、
マミーズて! ・・・ねぇ(笑)。
実は、
チーム名は “おばけナイターズ” にしようと決めていたンです。
でも、
メンバーも集まり、いよいよ正式なチームにしようとしていた頃に、
当時付き合ってた彼女(離婚した元妻)が
僕の苗字をモジって「マミーズ、マミーズ」って冗談で呼んでたら、
いつのまにかメンバーたちもそう呼ぶようになり、こんなカッコ悪い名前になってしまったのです。
・・・まぁ、
おばけナイターズでも決してカッコいい名前ではなかったンですが(笑)、
こんなに長く続くとわかってたら、
誰が何と言おうと、絶対、“おばけナイターズ” で通しておけばよかった、と後悔しています。
その、“おばけナイターズ” とは何ぞや? と申しますと、
冒頭で御言葉を紹介した水木先生が描かれた、
漫画『墓場の鬼太郎』の、
第5話「おばけナイター」というエピソードから頂戴しようとしたものであります。
テレビアニメ化された、
いちばん最初の『ゲゲゲの鬼太郎』(あのモノクロ版のヤツね)の、
記念すべき第1話でもあったり、
平成になってからは映画化されたりもした、わりと有名なエピソードですので、
御存知の方も多いと思いますが、
一応、内容を紹介しますと、こんなストーリーです。
どん平少年は、墓場で1本のバットを拾った。
そして、翌日、野球の試合でそのバットを使ってみた。
結果は驚くべきものだった。
自分が念じたとおりに、ヒットでもホームランでも自由自在に打てるのだ。
それもそのはず。
どん平少年が拾ったそのバットは、
鬼太郎が墓場に忘れていった、“妖力” の宿ったバットだったからである。
そのバットのおかげで、
どん平少年の野球チームは全戦全勝、たちまち町じゅうの大評判になる。
大金持ちのおじさんがスポンサーを申し出て、
アメリカへ遠征に行くとか、プロ野球チームに育て上げるとか、
夢のような話がどんどん舞い込み、
どん平少年たちはすっかり有頂天になってしまう。
そんな或る晩の事。
鬼太郎がどん平少年のもとへ、バットを取り戻しにやってきた。
だが、どん平少年はそれを拒否。何が何でも返さない、と言い張る。
そこで、
鬼太郎の父・目玉おやじの提案で、
どん平少年と鬼太郎は、野球で決着をつける事となった。
どん平少年のチームと、鬼太郎率いる妖怪軍団が試合をするのだ。
どん平少年のチームが勝てば、
晴れてバットはどん平少年のもの、
ただし、
鬼太郎率いる妖怪軍団が勝てば、
どん平少年はもちろん、チームメイト全員の命を奪う、という条件で。
プレイボールは、翌日の夜中の3時。
場所は、墓場の中にある空き地。
恐怖と不安を覚えながらも、
念じたとおりに打てるバットさえあれば負ける事は無い、と試合に臨むどん平少年たちであったが、
所詮、人間が妖怪に勝てるはずもない。
妖力の宿った頼みのそのバットも
妖怪たち相手には全く通用せず、
鬼太郎率いる妖怪軍団が大量リードしたまま、試合は最終回を迎え、
どん平少年たちは、
もう自分たちの命もこれまでか、と諦めかける。
だが、
そこへ救世主が現れた。
太陽である。
ゴォ〜ンという夜明けの鐘の音とともに朝陽が昇リ始めると、
眩しい太陽が苦手な妖怪たちは、
なんと、試合を放っぽらかして一目散に逃げ出してしまったのだ。
仕方が無いので、そこで試合は中止。
バットを鬼太郎に返すのと引き換えに、どん平少年たちの命も、無事が保障される事となるのだった。
漫画を読んだのが先だったか、テレビで見たのが先だったか、
はっきり憶えていないのですが、
この「おばけナイター」というエピソードが、僕は子供の頃からとても好きでした。
“恐いけど面白い” というお化け・妖怪といったものの特徴が
わかりやすく描かれているし、
スリリングなストーリーなのに何処か長閑な雰囲気が、
いかにも水木ワールドといった趣で、
実に楽しいのです。
心得違いをしてしまったどん平少年たちを通して、
驕れる人間に対する “あてこすり” もチクリと感じられ、
そんなところにも惹かれてしまいます。
また、
出演している妖怪たちが、
河童とか一つ目小僧とかそんな有名どころではなく、
名も無き化け物ばかりであり、
“妖怪” の世界が人間の知識や想像を遥かに超えたものである事が暗に感じられて、
妙に味わい深いのであります。
最後、何事もなかったかのように静まりかえった翌日の墓場のシーンで、
漫画は終わりますが、
“妖怪”とは、元々、
怪異で不思議な現象を指す学術用語だったと言われていますので、
このエピソードそのものが、
“妖怪” であったとも言えるのです。
以前、第7回「妖怪のように美しく」の中でも述べたように、
僕は妖怪が大好き。
この「おばけナイター」を意識したせいではないと思いますが、
結果として、
野球と妖怪が大好きな大人になっちゃってる事の可笑しさや、
子供の頃の夢や思い出を込めて、
自分の野球チームを“おばけナイターズ” という名前にしたかった、というわけです。
・・・ね。
ちゃんと妖怪の話に繋がってたでしょ?(笑)
で、
肝心のソフビについてですが、
当然の事ながら、今回は妖怪のソフビを紹介します。
ただ、
妖怪のソフビと言えば、
なんといっても、
大映映画の『妖怪百物語』と『妖怪大戦争』が公開された昭和43年に
日東科学教材が発売した、
油すまし、からかさ、うしおに、一つ目小僧、一角大王、の5体が有名なのですが、
それらはもう、
前述した第7回「妖怪のように美しく」の中で詳しく紹介済み。
なので今回は、
それ以外のメーカーの、妖怪ソフビをピックアップしました。
日東科学教材の妖怪ソフビほど有名ではないけれども、
どれも魅力的で趣のある奴らばかり。
言わば “異次元の和み” である、これら僕の妖怪ソフビコレクションを見て、
ほんの少しでも、
残暑を乗り切る元気をつけていただけたら、幸いです。
では、まず、
トミーが発売した食玩から。
『妖怪百物語』や『妖怪大戦争』に登場した妖怪たちの商品化で、
平成ソフビではありますが、
昭和の時代や日東科学教材の妖怪ソフビの造形・カラーリングを意識した、
レトロタッチな人形になっています。
油すまし 全長約9センチ。 九州は熊本県に伝わる油の精。 第7回「妖怪のように美しく」の時にも述べましたが、 僕がいちばん好きな妖怪です。 『妖怪大戦争』では、 日本の妖怪軍団のリーダーとして、 豆絞りの鉢巻をした勇ましい姿も披露してくれましたが、 人形の方は、 日東科学教材のソフビに倣って、 暗闇の中にボーッと立つ、 スタンダードな姿で商品化されています。 ムッとしているような、微笑んでいるような、 そんな不思議な顔の表情が、なんとも不気味です。 |
一つ目小僧 全長約9センチ。 お化けと言えば一つ目、というイメージがあるので、 “日本の妖怪の代名詞” と言える存在です。 目の塗装が、 昔の人形のような手塗りによるものではないので、 なんだか機械的な作業で処理された気がして、 人形の顔から、感情を読み取る事が出来ません。 でもその結果、 ベーッと舌を出しているのに無表情な子供、 といった印象になり、 その違和感が、薄気味悪さを倍増しています。 |
からかさ 全長約9センチ。 骨からかさ、傘化け、一本足の傘、からかさ小僧・・・etc. 様々な呼び名で、 多くの人から親しまれ続けている妖怪です。 恐いンだけど何処か愛嬌があって憎めない、 というところが、 人気が高い理由でしょう。 上の一つ目小僧人形と同じで、 目の塗装が整い過ぎの感がありますが、 鼻や口元の雰囲気が妙に生々しいので、 そのアンバランスさが、 偶然にも、 傘という無生物に魂が宿った感じを表現する事に 効果的に働き、 魅力溢れる妖怪ソフビに仕上がっていると思います。 |
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この妖怪の存在が物語る、 物には精霊が宿る、とか、古い道具は魂を得る、とか、そんな日本独特の文化は、 物を大切にせよ、という教えに繋がるものなので、 どんな便利な時代になろうと忘れてはならない、 そして、子供たちに伝えていかねばならない “心” だと思います。 |
ダイモン 全長約9センチ。 バビロニアの古都・ウルの遺跡より甦った吸血妖怪。 その恐ろしい容姿と冷酷で残忍な性格が、 子供心を大いに震え上がらせました。 『妖怪大戦争』は、 日本に襲来したこの異国の妖怪を 総決起した日本の妖怪たちが迎え撃つ、という内容。 ダイモンの見事なまでの悪役ぶりが、 日本の妖怪たちを支持する気持ちを強く持たせてくれました。 |
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僕らの世代が、 妖怪をただ恐いものと捉えず、興味を持ったり楽しんだり出来るのは、 この映画が 日本の妖怪への感情移入をスムーズにさせてくれて、 その存在を愛せるよう導いてくれたからでもある、と僕は思います。 “悪” に徹したダイモンの存在があればこそ、です。 30年以上の月日を経て、 そんな忘れらない悪役・ダイモンが、お菓子のおまけのミニソフビとは言え商品化された事は、 僕らの世代には、とても懐かしく、また、とても嬉しい事でした。 |
上記4体の食玩人形は、
平成13年(2001年)の夏に発売され、
コンビニやスーパーのお菓子売り場に並びました。
つまり、
21世紀になって初めての “お化けの季節” に人間界に現れた(笑)わけで、
“どんな時代になっても、俺たちは変わらず居るんだぞ〜”
という妖怪たちのメッセージを感じてしまいます。
そして、
水木先生が作詞した『ゲゲゲの鬼太郎』主題歌の、
“♪お化けは死なない〜”というフレーズを思い出し、つい歌い出したくなってしまいます。
また、
その後、第2弾として、ぬっぺぽうと河童が発売されたり、
型が作られながら未発売に終わっていた、
ろくろ首、一角大王、二面女が玩具イベントで限定発売されたり、
まさに “♪お化けは死なない〜” と訴え続けているようなシリーズでした。
ぬっぺっぽう 全長約9センチ。 夜の町を散歩する肉の塊。 人間には特に危害を加えないとされていますが、 こんな気味悪いヤツが夜道を歩いているだけで、 充分迷惑です(笑)。 僕と同世代じゃない人には理解不可能かもしれませんが、 この妖怪のソフビ人形化も、とても嬉しいものでした。 |
この人形、 僕のショーケースの中で、 思ってた位置より ちょっとズレた場所に立ってる気がする事が時々あります。 真夜中にショーケースから抜け出して、 こんな感じで、部屋の中をヨチヨチと散歩しているのかもしれません(笑)。 |
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河童 全長約9センチ。 頭に皿のようなものを乗せ、 体は蛙のようにヌメヌメとしていて、 手には水かき、 背中には亀のような甲羅があって、 キュウリが好物で・・・、と 誰もがそのプロフィールを知っている、 日本で最もメジャーな妖怪です。 こんな人気者が 映画公開当時に商品化されなかった事が、とても不思議。 「ずっと待ってたンだぞ、君の事!」 という僕の心の声に、 「いやぁ、すまねぇ、すまねぇ。待たせたな」 とでも答えているかのような、 そんな愛嬌たっぷりなこの表情が、心を癒してくれます。 |
ろくろ首 全長約10センチ。 首が伸びてる分だけ、ほかの人形よりも大きいです(笑)。 想いを寄せた男に会いに行くために、 スルスルと首が伸びると伝わる、恋する(笑)妖怪です。 『妖怪百物語』でも『妖怪大戦争』でも、 この妖怪を演じたのは毛利郁子さんという超美人女優。 その、ゾクッとするような美しさが、 ろくろ首の恐さを 生々しく際立てていた感がありました。 |
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人形の方は、毛利さんと違ってそれほど美人ではないので、 実物のろくろ首のようにゾクッとはさせてくれませんが、 後ろから見ると、 足の裏の形状から、 正座をしているのではなく、横座り気味である事が確認出来て、ちょっと色っぽいです(笑)。 |
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一角大王 全長約9センチ。 いわゆる “鬼” の一種ですね。 とても強そうで、 僕らの世代にとっては、憧れのスター妖怪です。 |
この人形は、 日東科学教材の一角大王人形を諸に意識したカラーリングで、 血の気の無い真っ青な顔と体なのに、 目だけは、充血しているかの如く真っ赤です。 お菓子のおまけの小さな人形ながら、 身の毛のよだつ恐さがあります。 |
二面女 全長約9センチ。 一見、可愛らしい普通の女の子ですが、 後ろには、世にも恐ろしい顔を持っています。 これに似た、 後頭部にもうひとつの口を持つ “二口女” という妖怪も 関東地方に伝わっていますが、 どちらも、 女性の内面に秘められた “恐ろしさ” を表す存在であり、 女性の可憐な外見に うつつをぬかす男の馬鹿さ加減に釘をさす、 戒めの象徴のような気がします(笑)。 実物の二面女の、後ろの顔の片目は、 確か、つぶれて無くなっているような感じでしたが、 人形の方は、 このように、なんだかウインクしているみたいで、 お茶目な雰囲気に仕上がっています。 こっちの顔でウインクされてもなぁ・・・(笑)。 |
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お次は、
昭和51年の夏から翌年の春まで放送されていた『超神ビビューン』に登場した、妖怪たちのソフビ。
番組放送当時に発売されていた正真正銘のアンティークソフビなので、
レトロタッチの平成ソフビではどうしても出し切れない、“昭和の空気感” があります。
第1話に登場した敵、妖怪バックベアード。 ブルマァク製、全長約12センチ。 バックベアードというのは、 『墓場の鬼太郎(ゲゲゲの鬼太郎)』に登場した西洋の妖怪で、 水木漫画のオリジナルキャラクターだったはずなのですが、 水木プロとは無関係の、 石森プロ・東映の『超神ビビューン』に 当たり前のように出てきたので驚きました。 実は水木先生が考えたンじゃなくて、 欧米のどこかの国で伝承されている妖怪なのでしょうか? よくわかりません。 |
第2話に登場した敵、妖怪スイコ。 向かって左側は全長約10センチ、右側は約12センチ。 ともにブルマァク製。 滋賀県の琵琶湖周辺や九州地方などに伝わる、 “水虎(すいこ)”という河童の一種が モチーフになっていると思われます。 江戸時代の後期に制作された絵巻に描かれている水虎の絵は、 生々しいくらい写実的で、とっても不気味。 でも、この、 河童の体に虎の頭を乗せただけという安易なデザイン・造形のスイコも、 あまりにリアリティーが無くて、ある意味不気味(笑)。 |
最初は敵だったけど、 途中でビビューン側に寝返った、 巨人妖怪・シンド。 タカトク製、全長約14センチ。 足下には、 シンドとコンビだった小妖怪・ビリンが モールドされています。 |
シンドは、 企画段階ではニュードーという名前だったそうなので、 おそらく、日本各地に伝わっている “大入道” がモデルだと思われます。 中でも、 かの、伊達政宗が退治に出かけたと言われる、 宮城県は仙台に伝わる大入道は、 “雲を衝くばかりの巨大な化け物”だったとの事で、 妖怪でありながら、ゴジラみたいな大怪獣をイメージさせたりもしますが、 シンドの身長は3メートル、 ・・・大怪獣には程遠い大きさでした。 でも、 その実感出来るリアルな大きさが、逆に、大怪獣以上に恐かった気がします。 エンディングに、 街の人ごみの中をシンドが歩いている、というシュールな映像がありましたが、 周りの人間は、なぜか知らん顔。 たぶん見えていないのでしょう(笑)。 人間の目には見えないだけで、あんな異形なものがああやって普通に近くにいるのか、と思うと、 恐いような楽しいような、とても不思議な気分になります。 これぞ、妖怪の醍醐味ですね。 |
特撮ファンの方には今更説明する事ではありませんが、
『超神ビビューン』は、
前番組『アクマイザー3』の続編であり、
アクマイザー3(ザビタン、イビル、ガブラ)の魂を宿した3人の青年が、
それぞれビビューン、バシャーン、ズシーンという超神となり、
人間を苦しめる悪い妖怪たちと戦う物語であります。
→ |
|||||
向かって左から、ガブラ、ザビタン、イビル。 | 向かって左から、ズシーン、ビビューン、バシャーン。 | ||||
ガブラからズシーンに、ザビタンからビビューンに、イビルからバシャーンに、それぞれ魂が引き継がれて、 正義の三超神が誕生しました。 |
主人公の3人の青年たちがスポーツ選手であるという設定から受ける、明るく爽やかな印象や、
変身後の三超神が展開する秀逸で軽快なアクションには、
“正統派ヒーロー” と呼ぶに相応しい、健全な輝きを感じました。
でも、そのクラシカルなイメージは、
第2次怪獣ブーム・変身ブームが完全に過ぎ去っていたあの頃、
多様化・カオス化したいろんな特撮ヒーローを見てきた僕らの世代(当時、小学6年生)にとっては、
どうしてもインパクトが弱く、
その、真っ直ぐに描かれた古典的ヒーロー像が、
主人公であるヒーロー自身をカッコよく見せる事よりも、
むしろ、敵となる妖怪たちの怪奇性を際立たせる事に、効果を発揮しているように思えました。
なので、
個人的には、
ビビューンら三超神は
妖怪たちの “引き立て役” であった印象が強く、
番組自体も、
“特撮ヒーローもの” というよりは、“妖怪もの” として、僕は記憶していました。
見応えのあるテレビドラマだったとは思いますが、
戦う相手がもしも妖怪ではなかったら、僕の中では存在感の薄い作品になっていたかもしれません。
最後に、
『超神ビビューン』と同時期に放送されていた『ぐるぐるメダマン』から、
タカトク製のミニソフビを3体。
メダマン 全長約11センチ。 目玉のお化け。 目目連(もくもくれん)、百目、 手の目、百々目鬼(とどめき)など、 目玉に関係する妖怪はたくさんいますが、 おそらく、 その仲間であろうと思われます。 放送当時、 或るクラスメイトが 「メダマンなんて、 お化けのくせに全然恐くないがや」 って言っていたのを憶えてますが、 実際に、 こんなのが突然部屋に現れたら、 かなり恐いと思います(笑)。 |
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このメダマン、第1話で、 車に轢かれそうになった女の子を身を挺して守ったため、大ケガをしてしまいますが、 あの行動の勇敢さと優しい心には、いきなり泣けてしまいました。 メダマンはあの女の子の守護神でもあったわけです。 ・・・でも、 お化けって死なないけど、ケガはするのね(笑)。 |
アマノジャク 全長約13センチ。 古くから日本に伝わる “天邪鬼(あまのじゃく)” という小鬼が、 モデルかと思われます。 『古事記』や『万葉集』にも登場するというその妖怪が、 人が幸せになるのを邪魔したがる性格であった事から、 現代では、 性格の捻じ曲がったひねくれ者の事を “あまのじゃく” と呼んだりしますね。 メダマンの仲間であるこのアマノジャクは、 そんなひねくれた性格が 前面に出たキャラクターだったと記憶しています。 それにしても、 このユニークで愉快なデザインの発想には、感服してしまいます。 |
ミイラ男 全長約11センチ。 ミイラというのは、 痩せ細った姿のイメージがありますが、 それに反して、 こんなにもブクブクに太っているところが なんとも面白かったです。 でも、 包帯が解けかけてチラッと見えた足は、結構細かった記憶があるので、 ただ包帯を巻き過ぎてるだけで、 中身はやっぱり痩せ細ったミイラだったかもしれません。 いや、待てよ、 食いしん坊だったから、やっぱりおデブちゃんだったのかな? ・・・どーでもいいや!(笑) |
ほかにも、
海坊主、アズキアライ、マッサラといったお化けたちが
レギュラーとして登場していましたが、ソフビ人形にはならなかった模様です。
海坊主は、
お化けのくせに人間に驚いて気絶しちゃう、という、なんともいたいけなヤツでしたし、
アズキアライは、
川のほとりでショキショキと小豆をとぐ妖怪 “小豆洗い” の事ですが、
ハゲ頭のオッサン、という一般のイメージ(って言うか、水木先生の描く絵)とは異なり、
なぜか『がんばれ!!ロボコン』のロビンちゃんみたいな姿で、
小さな女の子が演じていて可愛らしかったし、
お皿の姿をした妖怪・マッサラも、
からかさや一反木綿などと同じで、
室町時代から伝わる、
“器物・道具も長い年月を経れば霊を得て一人歩き” という、
付喪神(つくもがみ)の一種と思われる、実に興味深い存在でしたので、
彼らがソフビ人形として商品化されなかった事は、
ソフビコレクターとしても、妖怪好きとしても、残念でなりません。
この『ぐるぐるメダマン』は、
『がんばれ!!ロボコン』のようなキャラクターコメディでありながら、
妖怪の恐さ・面白さも味わえる、素敵な作品でした。
最終回で、
メダマンたちが踊りながらお化けの世界へ帰っていく姿は、
『妖怪百物語』や『妖怪大戦争』のラストにも通じる、印象的な “百鬼夜行の映像化” であり、
妖怪の持つ陽気な性格を、子供心に強く植えつけるものだったと思います。
また、
番組を見ないで、ただメダマンたちの姿形を見ると、
お化け・妖怪いうよりは、
ロボコンの仲間のロボットではないかと思えるデザイン・造形でありましたが、
あの最終回の百鬼夜行には、
彼らが正真正銘のお化け・妖怪である事を
最後まできちんと表現しようとしたスタッフの意図が感じられました。
妖怪は愛すべきものです。
決して、馬鹿にしたり、否定したりするものではありません。
これは、
第52回「いるかもしれない」の中でも述べた事ですが、
妖怪は、神様や幽霊と同じで、
“いるか、いないか” ではなくて、“いるかもしれない” と思うべきものだ、
というのが僕の持論です。
僕自身、大好きだし、
そういうものの存在を信じたいけど、
「いる」と決めつけるわけにはいきません。
実際、見た事が無いし、
見た事がある、という人だって、
それは錯覚や脳内映像だったかもしれないのですから。
科学で証明出来ない以上、肯定は不可能なのです。
ただ、逆に、
科学で証明出来ないから、肉眼で確認出来ないから、
という理由で
その存在を頭から否定するのも、愚かな人間のする事だと思います。
「いない」と断言出来るほど、
人間の生み出した現在の科学が絶対だ、と
どうして言い切れるのでしょう?
もっと謙虚な気持ちが必要だと思います。
妖怪も、神様も幽霊も、
「いる」とか「いない」とか言って
我々人間なんかの手に負える代物ではないのです。
「いる」か「いない」かを、
人間が判断出来る範囲内で決めたって、
何の意味も無いし、何の役にも立ちません。
「いる」か「いない」か、
わからないけど、
「いるかもしれない」という “心の重石” として、捉えていればよいのです。
祟りがあったり、罰が当たったり、呪われたり・・・、妖怪も神様も幽霊も確かに恐い。
でも、それだからこそ、
人の心の闇を消せる力を持っている、と言えます。
今自分がこの地球上で生きてるという事を、
超自然も含めたところで捉えれば、
畏怖が生まれ、驕り高ぶる心に歯止めがかかります。
それは、
悲しく辛い時の、心の支えにもなります。
妖怪や神様や幽霊といったものは、
生命の神秘の象徴であり、
人間はそれを恐れ仰ぎながら生きていけば良いのです。
そうすれば、
優しくなれるし、元気も出ます。
人としての道を踏み外さない、強く清らかな心を持つ事にも繋がるでしょう。
少なくとも僕はそう思って生きています。
いつも心に妖怪たちがいるのです。
だから、
もし僕が墓場で妖力の宿ったバットを拾っても、
それを使って試合に勝ち続け驕りたかぶる、なんて事にはなりません。
恐いから、すぐに鬼太郎に返します。
ただ、
マミーズと妖怪軍団とで、試合をしてみたい気はしますが・・・(笑)。
参考文献
・『にっぽん妖怪地図』 阿部正路 千葉幹夫・著 角川書店
・『水木しげるの妖怪百物語 日本篇』 水木しげる・著 二見文庫
・『世界と日本 大図解シリーズ No.642 妖怪の世界』 中日新聞サンデー版
・『鳥山石燕 画図百鬼夜行』 高田衛・監修 稲田篤信 田中直日・編 図書刊行会