第44回 「お母さん」 2007.9
先日、別れた妻から電話があった。
中学生の息子たちが反抗期をむかえ、全然言う事を聞かないので叱ってほしい、というものだった。
塾はサボるし、財布から黙ってお金は持っていくし・・・、との事。
そして、何より、「くそババァ!」と言われた事がショックだったらしい。
くそババァだから「くそババァ!」って言われたンじゃないの?
って言おうと思ったが(笑)、
そんな事を言ったら喧嘩になるし、
キレられて「もう子供たちには会わせません!」なんて言い出されても困るので、
「あの年頃の男の子は、みんなそうやって言うンだよ。健全に育ってる証拠だよ」
と、なだめた。
実際、塾をサボったり、親の財布からお金を抜いたりするような年頃の男の子なら、
母親に向かってそんな口も利くだろう。
もちろん、僕にも経験がある。
どこの家庭でもある事なのだ。
そんなに心配する事ではないと思う。
むしろ逆の方が心配だ。
反抗期もなく、「くそババァ!」と言う事もなく育てば、
ナヨナヨと母親を頼りにして、自分の行動を自分で決断出来ないような男にもなりかねない気がする。
母親に「くそババァ!」と言うような時期を経て、
子供は自我を確立し、
社会の中で他者と付き合える“人間”に育っていくものなのだから。
「くそババァ!」なんて、確かに酷い言葉だが、
母親を心から信頼していなければ発せられない言葉でもある。
そもそも、
男というものは、誰もがマザコンである。
男は皆、
母親に固着し、母親に最高の価値を置いているのだ。
「くそババァ!」と言ったからといって、
母親を悲しませても平気な息子は、絶対いない。
年齢による精神的な未熟さゆえの“照れ隠し”に過ぎないのだ。
だから、
いつか必ず、
自分の母親にそんな言葉を吐いた事を後悔する日だってやってくる。
母親は、思春期の息子に「くそババァ!」なんて言われても、
いちいち驚いたり傷ついたりする必要は無いのだ。
親に向かってそんな口を利くのだから、もちろん叱らなければいけないが、
自分の息子が大人になろうとしているその過程を、理解し、見守ってやる気持ちも必要だと思う。
だいたい、
あなたから叱ってほしい、なんて突然言われても、僕にはどうしてやる事も出来ない。
なぜかと言えば、
別れた妻は、息子たちの前で日頃から僕を“父親”としては位置付けていないからである。
以前、こんな事があった。
僕が出演した或るテレビドラマが放送された翌日に、
息子たちからメールが来たのだが、
長男からは、
昨日、見たよー! お母さんに隠れて携帯電話のワンセグでだけど。
次男からは、
昨日のドラマ、見たかったけど、お母さんがいてとても無理だった。(>_<)
という内容だった。
僕は驚いて、
お母さんが「見ちゃダメ」って言ったのか?
と返したら、二人からYESの回答。
・・・なんて事だ。
なぜ、見ちゃダメなのだ?
なぜ、息子たちがそんな思いをしなければならないのか。
僕は腹が立った。
だが、
それを別れた妻に言えば、
話がまたややこしくなって息子たちが嫌な思いをする事は目に見えている。
僕との携帯電話でのやりとりも禁止されるだろう。
親権が向こうにある、という事は、言ってみれば人質をとられているようなもの。
泣き寝入りするしかないのである。
ナサケナイ話だ。
別に青少年が見るには相応しくないものに出てたわけじゃないし、
そもそもテレビになんて滅多に出ないのだから(苦笑)、出た時くらい見せてあげてほしいものだが、
どうやら無理らしい。
それでいて、
息子たちが反抗期で「クソばばぁ!」って言うから叱ってほしい、
なんて言われても、僕は困惑してしまうのである。
自分の母親が普段から嫌ったり否定したり馬鹿にしたりしている男の言う事を
父親の説教だと思って息子たちが素直に聞くとは、到底思えない。
そもそも、
普段、親らしい事をろくにしてやってもいないのに、どの面さげて息子たちに説教をしろと言うのか。
僕の出る幕ではないのだ。
それに、
息子たちは、
お父さんの出てるテレビは見るな、なんていう、そんな理不尽でヒステリックな感情をぶつけられても、
母親の事を決して悪く言わない。
必死で働いて自分たちを育ててくれている姿をちゃんと見ているし、
母親の事が大好きだからである。
息子にとって、男にとって、母親とはそういうもの。
父親と息子の繋がりなんて、母親と息子のそれに比べたらオマケのようなものなのだ。
・・・と、まぁ、
そんな愚痴は置いといて(笑)、
このエッセイで母親について語れば、紹介するソフビは必然的にコレ、ウルトラの母。
昭和48年、『ウルトラマンタロウ』に登場した、その、初の女性ウルトラマンは、
当時ブルマァクからいろんなサイズで商品化された。
その頃は、
僕はもうソフビで遊ぶ年齢ではなくなっていたので経験はないが、
当時の子供は、ウルトラの母の人形が欲しくても、
恥ずかしくて、なかなかおねだり出来なかったンじゃないだろうか。
「ウルトラの母なんて要らん!」という言葉は
「くそババァ!」と同じで、
額面どおりの意味を持つものでは、決してなかったと思う。
550円サイズ。全長約34センチ。 なんといっても、この、しなやかな指のラインが好き。 上品で、美しくて、優しくて、それでいてどこか力強い。 ウルトラの母は、 この素敵な指先から発射するマザー光線で、 息子の傷ついた体を治療するが、 あれは、M78星雲人特有の超能力、と言うより、 母親の強くて深い“愛”の象徴だと思う。 子供の頃、 母親にお腹をさすってもらったら 腹痛が治った経験が誰にもあるだろう。 すべての母親の指先から、マザー光線は発射されるのだ。 |
ミニサイズ。全長約12センチ。 我が子の身を案じ、 そっと見守っているような姿にグッときます。 ペンダントか何かにして “お守り”として常に身に着けていたい。 |
300円サイズ。 新スタンダードサイズとも言うべきか、全長約20センチのソフビ。 同じサイズとポーズで、ウルトラの父や6兄弟とともに商品化された。 ウルトラの母は女性なだけに、 このような勇ましく足を踏ん張った戦闘態勢ポーズには 違和感を覚えなくもないが、 子供を護るためなら、母親は男性と同じように戦える、 という “証” にも思える。 女性だからといって男性陣とポーズを変えなかった事が、 “母親” というキャラクターの深みを表現する事に効果的に作用した、 素敵な人形である。 |
頭部をつまんで回すと、人間の顔が現れるタイプ。
全長約20センチ。
馬鹿の一つ覚えのように多く作られたマスク着脱タイプの人形と違い、
メーカーの発想力が窺える、楽しいアイテム。
現在では考えられないセンスとアイデアであり、“時代”を感じる。
って言うか、
当時だって、子供には全然人気なかったと思う。
他社がジャンボマシンダーとか超合金とか作ってる時代に、
ぶっちゃけ、これは無いでしょう(笑)。
しかも、
さすがブルマァク。子供の気持ちなど一切無視して、このタイプで夫も息子も商品化。
・・・ありえん(笑)。
タロウも、思春期の頃には、ウルトラの母に向かって「くそババァ!」なんて言ったのかな(笑)。
僕は、親不孝な息子だった。
学校の成績は悪いし、社会に出てもお金は稼いでこないし、
何をやっても中途半端。
おまけに、
母親が癌に侵され余命幾許も無いという時に、
女房に逃げられ、マイホームも失い、
最後の最後、最期の最期まで、迷惑と心配をかけた、ろくでもない馬鹿息子だった。
それでも、
母親を悲しませたくないという気持ちは、いつもしっかりと胸にあった。
母親が大好きだった。感謝もしてたし、尊敬もしてた。
ただ、
僕がそういう気持ちでいる事を、母親に充分に伝えられたかというと、
それは自信が無い。
わかっていてくれただろう、と思うだけである。
もうこの世にはいないので確かめようがないし。
だから、
照れくさくても、まわりからマザコンだと馬鹿にされても、
母親を大好きな事や心から感謝している事を、もっと言葉にして伝えておけばよかったと後悔している。
母親に、
「くそババァ!」と言った記憶はあるが、
面と向かって「好きだ」とか「ありがとう」とか、言った記憶は、ほとんどない。
お墓や仏壇に向かって今頃言ったって、もう遅いのだ。
母親の事を思い作られた、こんな短歌を聞いた事がある。
若い頃 あなたに「死ね」と言った僕
あの日の僕を 今 殺したい
こんな気持ちになった頃、
母親への気持ちを素直に口に出して言えるようになった頃、
そんな頃には、
往々にして、母親はこの世にいないものである。
僕の息子たちも、いつかきっと、
自分の母親に「くそババァ!」なんて言った事を心から後悔する日が来るだろう。
どうかその日が、
別れた妻が元気で生きてるうちに来る事を、僕は祈っている。
僕に出来る事はそれくらいの事だろう。
ただ、世の中には、母親がいなかったり、いたとしてもその愛を受けられないでいる子もいる。
今度息子たちに会ったら、
「くそババァ!」なんて言える存在がいる事がどれだけ幸せな事か、
その事だけは、伝えたいと思う。