第43回 「オモチャの価値とコレクターの情熱」 2007.8
先日、モダン文化マーケットで、この二つの商品を購入した。
向かって左側は、
マルサン製ジェットビートルのソフビ。
昭和41年、つまり、『ウルトラマン』放映時の商品。
右側は、
ポピーの警備隊マシンセット。
足型セブンのミニ人形とセットになって、
ウルトラホーク1号、ウルトラホーク3号、ポインター、マグマライザーのミニソフビが入って、
ブリスターパックになっている。
昭和50年代半ばの商品であろう。
どちらも、
市場にはなかなか出ないソフビだ(・・・と思う)。
久しぶりにモダン文化マーケットで幸せな買い物をした。
実を言うと僕は、
最近のモダン文化マーケットには、淋しさや物足りなさを感じていた。
コレクターやマニアが不要なものを持ち寄って必要とする人へ安くまわす、といった、
昔ながらと言うか本来の姿と言うか、そういったものではなくなってしまい、
オモチャ屋さんの真似事をしたい人たちの
“お金儲けの場” と化してしまった感があるからである。
モダン文化マーケットは、
正式名を “名古屋アンティークTOY・WORLD モダン文化マーケット” といい、
ここ名古屋で年2回開催される、オモチャのイベントである。
そういったTOYショーは各地で行われているが、
僕にとってモダン文化マーケットは、
地元名古屋のイベントでもあるし、
縁あって立ち上げから関わらせてもらったので、
特別な思い入れがあった
(あぁ、そうそう、この『ソフビ大好き!』というエッセイも、
元々は、
モダン文化マーケットの出店者や来場者に配布される小冊子に
連載していたものでした)。
最初は、
主催者も現在とは異なり、“モダン文化マーケット” なんて洒落た名前もついていなかった。
もう20年近く昔の話だが、
ホテルの小さな会議室に地元名古屋の玩具愛好家が
ダブったコレクションなんかを持ち寄って数名集まり、
食事をしながら世間話や情報交換を行った後、ミニオークションを開いたのが始まりである。
ブリキの大御所マニアから、
僕のような若い(当時の話ね)ソフビコレクターまで、
いろんな人がいた。
この『ソフビ大好き!』の連載でお世話になっているゲイトウエイのオーナー・杉林さんも
メンバーの一人だった。
僕はコレクターになりたての頃だったので、
諸先輩と交流が持てるのは嬉しい事だったし、勉強にもなった。
オモチャに関するいろんな話をする事が、
とにかく楽しかった。
それが段々と参加者が増え、大きな会場を借りるようになり、
現在のようなTOYショーへと進化していったのである。
小さなTOYミーティングだったものが
名古屋のオモチャのイベントとして全国的に知られるようになっていくのは、
とても喜ばしい事であり、
誇りに思える事であった
でも、規模が大きくなるにつれて、
古いオモチャが好きな人同士の交流、というよりは、
オモチャの売り買いがメインの、単なるフリーマーケットになっていってしまった。
それが自然な流れで仕方ない事なのかもしれないが、
僕は、なんとなく愁いを感じた。
しかも、
“フィギュア” なんて言葉が流行りだした頃から、
復刻品や平成のソフビなどを目当てに来場する人が増え始め、
いつのまにかそちらが主流になってしまった。
すると、
出店する側も、そういった “今風” な客層に合わせたモノしか持ってこなくなったし、
遂には出店をやめてしまうケースも多くなった。
売る人も買う人も顔ぶれが変わり、会場の雰囲気も変わってしまったのだ。
コレクター同士が缶ビールなんかを飲みながら談笑している光景もあまり見かけなくなった。
僕が好きだった “懐かしいオモチャのお祭り” ではなくなってしまったのだ。
必然的に、
いいモノも出難くなったし、
出たとしても、安く買えるケースはほとんどなくなった。
よって、
イベント当日の朝にワクワクして胸がときめく、なんて事も、なくなってしまったのである。
でも、この日は、
会場の雰囲気がなんだか違う気がして、
周りの人に
「なんかいつもと感じが違うね」
なんて話してた。
「別にいつもと変わらないじゃん」
って言われて相手にしてもらえなかったけど、
何かが違う気がしたのだ。
いつもと変わらぬ光景で、何がどう違うかは説明出来ないのだけど、
なんとなく肌に合う “空気” を感じた。
幸せの予感がした。
で、開場してすぐに、このジェットビートルと出逢った。
鳥肌がたった。
そして、メカソフビの当たり日だったのか、
そのすぐ後で、この警備隊マシンセットとも出逢った。
ビビビッときた。
「たまたまだわ〜、そんなのォ」
と、やはり周りの人には相手にしてもらえないが、
コレクター独特の感覚で、“モノ” の波動を開場前から感じ取っていたのだ、
と僕は信じている(笑)。
で、嬉しかったので、
帰宅後、デジカメで冒頭の写真を撮り、
それを、
友人であるOさんへのメールに添付し送った。
Oさんは関東在住のオモチャコレクター。
自動車メーカーに勤務するサラリーマンだが、
独身で本来入居資格が無いのにもかかわらず、家族のいる社員専用の広い社宅に住んでいる。
コレクションである大量のオモチャを置くためである。
そんな理由を認めている会社が凄いのか、認めさせてるOさんが凄いのか、
僕にはわからないが、
Oさんが筋金入りのオモチャコレクターである、という事は間違いない。
ソフビにはあまり興味は無いようだが、
メカとか武器とかのキャラクター玩具が大好きで長年集めている人なので、
このジェットビートルや警備隊マシンセットの魅力も充分にわかってもらえるだろうと思い、
コレクションが増えました、
という報告と、
モダン文化マーケットでまだまだこんないいモノが買えますよ、
という自慢がてらに、
僕の近況をメールしたのだ。
すると、
僕のメールの
「警備隊マシンセットの方は、開封前の貴重な画像です(笑)」
という一行に、
Oさんは過敏に反応し、こんなメールを返してきた。
早まるな〜っ!
ちょっと待て。話し合おう。
パッケージを破るのはいつでも出来る。
3年後でも5年後でも、好きな時に出来るのだ。
新品同様の物が、この地球上から1つ減るのはとても悲しい。
バラで美品が見つかったら「もったいなかっ た」と思うでしょ? 思う筈だ。
もちろん、バラで飾るのはマミさんの自由だが、
今すぐに開封しなくてもいいんじゃないかなー?
Oさんは、
コレクションを未開封のまま保管する人なのだ。
僕はといえば、
Oさんとは逆で、すべて開封してしまう。
まぁ、マルサンやブルマァクのソフビを
すべて新品・未開封でコレクションするなんて不可能な話なので、
アンティークソフビが好きな人には
最初から “未開封” なんて概念はないンだけどね。
だけど、
可能・不可能の問題ではなく、
未開封のソフビなんて僕にとっては何の意味も持たない。
オモチャは “触って遊んでなんぼ” であり、
特にソフビは、
手にした時のちょっと湿ったような質感や甘い匂いを感じなければ、
その魅力を半分も理解出来ないからである。
せっかくめぐり逢って手に入れる事が出来たのに、
それを味わう事なくしまっておくなんて、
それこそ「もったいない」と思うのである。
子供の時みたく人形同士をぶつけ合うような激しいバトルはさすがにしないが、
それでも手足を動かしていろんなポーズをとらせるくらいの事はしてみたい。
いろんな角度から眺めてみたい。
そこにソフビの良さがあり、夢や思い出が宿っているのだから。
開封しなければ、
夢も思い出も熱く甦ってこない。
袋の上からなぞってたって、ソフビの良さなんて解りっこないのだ。
それに、
僕のコレクションケースは、
子供の頃のオモチャ箱の進化した状態をイメージしてるので、
袋入りやパッケージ入りのままソフビを入れておくなんて、ありえないのだ。
そんなオモチャ箱はないのだから。
きれいに飾ってはあるけど、いつでも手に取って触れる状態になっていなければ、
自分自身がオモチャの近くにいる意味だって無いのである。
新品・未開封なまま何十年と存在したオモチャを開封してしまう事に、
文化遺産を破壊してしまうような感覚を覚えるOさんの気持ちは、
全く理解出来ないわけでもないが、
僕は、ソフビを、味わうために集めているのであり、集めるために集めているのではない。
なので、
「Oさんには申し訳ないけど、パッケージは破かせていただきます」
とメールしたら、
それでも諦めきれないのか、
数時間後、こんなメールがまた返ってきた。
Oさんの熱い蒐集魂を表すかのごとく、かなりの長文であり、
ちゃんと下書きをしてから清書した事が窺える、エッセイ仕立ての凝った文章だった。
人が最初に個人で所有する物、おもちゃ。
三つ子の魂百まで。
まさに人類の深層心理に刷り込まれ、
永遠の憧憬と物欲に裏打ちされた、究極の魂の雄叫び「玩具道」。
はい、本日のお題はこれ。
何ゆえ未開封か。
うむ。実にシンプルにして奥が深いこだわり。
これを理解するには、“コレクター”についての理解が必要だ。
通常、おもちゃは「遊んでなんぼ」である。
グリグリにいぢり倒して、改造して、
ボロボロに壊れるまで使われてこそ、“愛された”存在だと言えるだろう。
それに反して、コレクターは開封すらしない場合が多い。
組み立てることが“目的”である筈のプラモデルでさえ、
中のビニールすら破くことは無い。
かと言って、決して転売が目的なのでは無い。
あくまでも自分が楽しむために買い、そして何もしないのである。
なるほど。傍から見れば奇異に映るかも知れない。
しかし、では問おう。
切手のコレクターは、なぜに集めた切手を使わないのか?
切手の本来の目的は、封筒に貼ることである。
有価証券でもあるのに、買い込んで使わないままでは、
ただの“糊の付いた綺麗な紙”にしか過ぎないではないか。
「おいおい、無茶を言うなよ。
記念切手は最初から、収集用途としても考慮された物なのさ。」
そんな意見もあるかも知れない。
しかし、コレクターにとっては、メーカーの意図などどうでも良いのだ。
“自分にとっての価値”、それこそが全てである。
ゆえに、マッチ箱や牛乳のフタでも、立派なコレクションとして成立する。
つまり、コレクターの本質は、対象物を“使う”ことにあるのでは無い。
価値のある物を“揃えていく”ことに楽しさがある。
これを理解して頂くことが出来れば、冒頭の疑問への答えは簡単である。
そして。
骨董品でも何でも、“状態の良いものほど価値が高い”という概念は、
一般通念とみなしても良かろう。
ならば、最も価値の高い状態である“新品・未開封”を、
コレクター達が理想として目指すのは、極めて自然な発想だ。
新品・未開封・美品。
うぉぅ! 何と魅惑的な響きだろう。
状態の良いものほど希少である。
希少なものに心躍るのは、コレクターとしての性である。
“新品のまま残っている”、 これはひとつの奇跡。
通常は消費されて、既に現存などするはずの無い物が、
時空を越えて目の前にある。この衝撃は、人を感動させるのに十分だ。
確かに合体ロボットとか、遊び倒さないと、その仕組みすら分からない物はある。
ならば。もし本当に遊びたいならば、
もう1個を買って、状態の悪い方を開封に回せば良いのだ。
それこそ“3個買い”とか言うマニア概念の世界である。
広く一般に普及しつつある概念だ。
遊ぶな!とは言わない。それはオーナーの自由だから。
しかし、合金玩具は、ソフビ怪獣などに比べて、
塗料剥げや、関節の緩みが起きやすい。
“保存用”と“愛玩用”との状態の差が激しいのだ。
ゆえに、別々に分ける必要性が生まれる。
この点、“中古がデフォルト”という、ソフビやブリキと比べたら、
同じ玩具でも、少し文化は異なるのかも知れない。
“ゆるゆるでぶらんぶらんの関節に、傷だらけの胴体”は悲しい。
“潰れてシワだらけの、汚れたパッケージ”もやはり悲しい。
そう。ピッカピカの新品の方が、見て、所有して、嬉しいのだ。
これには理由なんて、無い。 嬉しいから嬉しいのだ。
この気持ちが高じて、
“美箱を追求し過ぎる”のは、確かに“手段が目的になってしまった”様な、
本末転倒な感じを受ける。
思うにこれは、硬質玩具の“カチッと感”を、
パッケージにまでも求めてしまった、嗜好の過剰適用による弊害であろう。
私も時々、このA型チックな神経質さが、嫌になる事がある。
それでは今夜。 そんなしがらみから開放されて、コレクションを開封して遊んで見るかい?
・・・うーん。それは、やっぱりもったいないなぁ。
それこそ『フィギュア王』誌上で展開された“絶版キット 組んでまえ!!”の世界である。
開封時に、周りの人間が悲鳴を上げたのも、無理からぬ話だ。
まぁ、今日のところはやめておこう。
開封するのはいつでも出来るよ。
うん。その通りだ。3年後でも5年後でも出来るのだ。
・・・そう自分に言い聞かせなければならない程に、
“二度と開封前には戻せない”という現実の壁は厚く、
未開封美品の入手の困難さは“運命レベル”にまで達して来ている。
正に“一期一会”の境地である。
もしも、いま手元にある、そのそれが、
日本で、いや世界で、“最も状態の良い現存品”だったらどうしますか?
バカバカしい妄想だけど、
そんなドキドキ感も、楽しみの一つに有っていいんじゃあないでしょか?(笑)
だ・か・ら。
それを開けるのは、良ぉ〜く考えてからでも、遅くは無いんじゃないのかなー♪
他人のコレクションなのに、ここまで気になるのだから、
Oさんの未開封にかける情熱やこだわりの強さは、相当なものである事が窺い知れる。
でも、
Oさんは僕と同じ “コレクター” であり、
未開封の方が売る時に高く売れる、なんて考える “俄かマニア” とは違うので、
転売時の事を考えて “未開封” にこだわっているのでは、決してない。
所有者になりたい僕とは異なり、
あくまでも “保管者” の立場・目線なのだ。
Oさんがそうやって未開封・新品の状態のまま保管すれば、
たとえOさんが死んだ後でも、
そのコレクションは誰か次世代のコレクターに受け継がれるだろう。
それに比べて、
開封してしまっている僕のコレクションは、
僕が死んだと同時に価値を失い、ただのゴミでしかなくなる可能性が大だ。
己の欲を抑えてまで、商品の価値を守りたい、モノの存在を維持させたい、
そんなOさんの熱い情熱は、
間違いなく “オモチャへの愛情” である。
もちろん、僕にだって、オモチャへの愛情は誰にも負けない自信があるが、
“方向” と言うか “表現” と言うか、
オモチャの愛し方が、Oさんとは異なるのだ。
恋愛に例えるならば、
自分のすべてを賭けて、それこそ命がけで惚れた女を愛しぬこうとするのが僕で、
Oさんは、
それで惚れた女が幸せになるのなら、そっと身を引く事が出来る男であろう。
どちらも惚れた女への “愛” に満ち溢れているのは確かだが、
当の惚れられた女にとっては、
どちらが嬉しいのだろうか。どちらが幸せなのだろうか。
・・・まぁ、女はともかく、
オモチャは、
僕の許へ来る事とOさんの許へ行く事の、どちらを喜んでくれるのだろうか。
しかしながら、
Oさんの集めるオモチャがソフビでないところが、この話の落としどころである。
これがもし、同じソフビコレクターであったなら、
お互いに相手を認めないだろう。
「あいつはソフビを理解していない」
とか
「あいつはオモチャを愛してなんかいない」
とか、
そんな事を言い合いながら、
どちらも譲らない事は安易に想像出来る。
40過ぎのオッサン同士が、たかがオモチャでムキになるなんて、
傍から見たら馬鹿馬鹿しい事かもしれないが、
オモチャを愛していればいるほど、この手のこだわりの違いは必ず起きるのだ。
Oさんも僕も、“コレクター” なのだから。
コレクターは、
良く言えば “熱い男”、悪く言えば “融通の利かない不器用な男” である。
相手はオモチャなのに、
遊び心とか粋とかとは、実は無縁だったりするのだ。
再び恋愛に例えるが、
オモチャが恋人だとするなら、
いろんな恋愛を楽しむタイプではなく、
“この女のためなら死ねる” なんて本気で思ってる馬鹿な男、それがコレクターであろう。
一途なだけに余裕が無い。
全然お洒落じゃない。
でも、
そこに自分自身の存在意義があると信じて疑わない。
だから、
「今、○○にハマってます」なんて軽々しく言う、
オモチャをファッションの一部として捉えてるような人達と一緒にされたり、
“オタク” などという意味不明な俗称で無神経に呼ばれたりすると、
僕は癇に障る。
これは、一般的には理解してもらえないかもしれない、実にデリケートな部分ではあるが・・・。
オモチャをコレクションしていく事を
暮らしの中で最も優先して考えてしまうのは無意識に行うが、
そこに “譲れぬこだわり” という意識が明確にあるのが、コレクターなのだ。
オモチャをコレクションする事は、
ある意味自己表現でもあり、
そのコンセプトやポリシーに基づくこだわりは、そのコレクターの美意識の表れである。
そこを妥協してしまったら、
自分のアイデンティティーや生きる意味さえ見失ってしまうかもしれないのだ。
マルサン製 ジェットビートル
開封済みの中古品だったため、今回、Oさんには一切興味を示してもらえなかったが、
なかなか素敵な一品だと思う。
実物のジェットビートルは、
ウルトラマンと同じで銀のボディをしているが、
ソフビの方は、
このように水色の成形色。
まるで、澄んだ大空と一体化して飛んでいるようで、とても清々しい。
また、
このように状態が良いのは稀で、
新品・未開封のものでない限り、まず、シールは劣化して剥がれてしまっているし、
ヒドいものになると、下の金具の部分がゴソッと無かったりする。
新品・未開封のオモチャが生娘だとすると、
このジェットビートルは、
生娘ではないのに生娘のような初々しさや恥じらいを持っているわけで、
実に魅力的な女性だ、と言える。
・・・ん? 待てよ。
って事は、
Oさんは、処女にしか興味が無い、という事になるなぁ。
しかも、結婚しても“夫婦の営み”は一切無しだ。
ああ、やっぱ、オモチャは僕のところに嫁いできた方が幸せだぞォ(笑)。
マルサン製 ケンジ少年
袋入り新品・未開封のまま、廃業したオモチャ屋さんの倉庫で30年以上眠っていた。
開封して初めて、
スカーフが鮮やかなピンク色である事を知った。
開封する前は、
積年の埃や何やらで汚れたビニール袋に阻まれ、はっきりとは確認出来なかったのだ。
そんな、
スカーフのピンクの鮮明さに感動した気持ちによる錯覚であろうが、
袋の中でなんだか息苦しそうだった人形の顔が
袋から出した途端、
急に活き活きとしだしたように見えた。
とても嬉しい瞬間だった。
人形と一緒に、そういう気持ちも、僕は大切にコレクションしていきたい。
日東科学教材製 バルゴン(スタンダードサイズ)
僕は、初期(向かって左側)のバルゴン人形のダイナミックな風貌が大好き。
この人形が初めてオモチャ屋さんに届いた時、
「角が袋を破って突き出ちゃってる」
と、問屋さんに苦情が殺到したそうである。
(オモチャ自身が、自分で袋を破ってまで「外に出たい」と言っていたのだ(笑))。
それで、
次は袋を破かないようにと、
角を赤ちゃんのオチンチンみたく小さく造形して、
右側のバルゴン人形が誕生したわけだが、
可愛らしくて愛嬌はあるものの、
こうやって比較してみると、
同じ怪獣の人形とは思えぬほど見劣りを感じてしまう。
袋を突き破ろうがどうしようが
迫力重視で作られた怪獣人形と、
迫力やカッコよさよりも袋に納まる事を優先に考えて作られた怪獣人形。
作り手の、“魂” と言うか “思い” と言うか、
そういった内面性の違いが、
角の大きさだけでなく、外形全体に、あからさまに現れてしまっている。
オモチャは袋から出して遊ぶものなのだから、
当然の結果であろう。
ブルマァク製 パンドン(スタンダードサイズ)
頭部の細かい棘が、
袋入り新品でない限りまず破損してしまっている、
という非常にデリケートな人形。
長年、袋入り新品を探し続けて、なんとか手に入れる事が出来たが、
開封しなければ、
背中の塗装にこのようなバージョン違いがある事は、気づかなかったかもしれない。
この微妙な塗装色の違いこそ、
ソフビ怪獣人形蒐集の醍醐味であり、奥深さなのである。
袋から出したからこそ、
その味わいを知る事が出来、その魅力に酔う事が出来たのだ。
それにしても、
赤のボディにメタリックグリーンとは、ずいぶん思いきったカラーリングである。
ブルマァクらしい派手で大胆な感覚が、
なんと背中に隠してある、ニクい人形である。
ブルマァク製 怪獣のたまご
たまごの中には、シュガロンのミドルサイズ人形が入っていた。
袋入りの新品状態を手に入れても、
開封しなければ、中に入っている怪獣人形は拝めない。
つまり、
袋を破かねば、怪獣は産まれてこないのだ。
購入後すぐに開封し、僕の人肌で温め、無事、孵してあげました(笑)。
バンダイのウルトラ怪獣シリーズも、購入後は、僕は必ずタグを除去します。
子供がタグをつけたまま遊ぶ、なんて事はありえないからです。
だいたい、
人形の体をブチ抜いて穴を開け、そこにタグ打ち込む、なんて残酷過ぎます。
そんな痛々しい姿を放っておける人の神経が、僕には解りません。マジで。
しかも、
オモチャ屋さんでは、そのタグをフックに引っ掛けて吊るされてるわけですから、
僕には、人形が虐待されているようにしか見えません。可哀想でならないのです。
出来る事なら、
日本中のオモチャ屋さんから全てのウルトラ怪獣シリーズを買い上げ、
一体一体タグを抜いてあげたい。
バンダイのウルトラヒーローシリーズは、
小窓から人形前面の上半身だけが確認出来る箱に入って売られている。
昨年末に
円谷ジャングルの移転オープンを記念して、
ウルトラマンタロウのクリアーラメヴァージョンが発売されたが、
購入してそのタロウを箱から出したら、
製造過程になんらかのアクシデントがあったのか、つま先が少し溶けたみたいになっていて、
あわてて取り替えてもらった。
未開封が価値が高い、と信じて保管しているコレクターは、
ひょっとしたら、欠陥品を大切に大切に保管しているのかもしれないのだ。
自分の目で見て、自分の手で触って、自分自身の判断で、オモチャの価値は決めるべきである。
・・・というわけで、Oさん、ごめんなさい(笑)。
・Oさんのホームページ・おっくんハウス http://okkunhouse.nce.buttobi.net/
・モダン文化マーケットのホームページ http://www.vita-web.co.jp/