第133回 「六番町の思い出 〜無常の世をソフビ人形とともに〜」 2015.2
今日は、
我が草野球チーム・マミーズが所属する、
名古屋軟式野球連盟・名古屋総合スポーツ振興会の開会式でした。
約130チームが所属する大きな団体ですので、
こういった行事も本格的です。
毎年、この時期に、
瑞穂球場に全チームが集結して、
連盟役員や審判員の方々が見守って下さる中、
入場行進、国旗掲揚、選手宣誓、優勝旗の返還などが行われ、
当連盟の名誉会長である西川俊男さん(株式会社ユニーの創設者)の始球式によって、
シーズンがスタート、となります。
ただ、
その西川さんが今年の1月1日に急逝されました。
空も泣いているのか、今日は朝から雨。
目玉である入場行進は中止となり、
屋根のあるネット裏のスタンド席において、
縮小・変更された内容の式典のみが行われる事になりました。
入場行進の中止により、 今年は出番が無くなったプラカード。 ・・・なんだか淋しそうです。 |
それにしても、名誉会長の西川さん、
昨年末に
表彰式(この開会式と同じく当連盟の年間行事のひとつ)でお見かけした際は、
いつものようにお元気でいらっしゃたので、
あまりに突然の訃報が信じられず、
僕は今日までずっと現実を受け入れずにいたのですが、
先ほど
式典において黙祷を捧げた際、
たとえ天気が良くても、
もう西川さんの始球式を見る事は出来ないんだ・・・、
と、実感しました。
悲しいです。
命は限りあるものですから仕方がない事と解っていても、
やはり残念でなりません。
ただ、
これで今日から今季リーグがスタート、
今月末には
我がマミーズも開幕戦を迎えますので、
いつまでも暗く沈んでいるわけにもいきません。
心からご冥福をお祈りするとともに、
西川さんが生前よくおっしゃっていた、
「野球を続けている限り、
あなたたちは青春の真っ只中にいるのですよ」
という言葉を今一度胸に、
健康な体で野球が出来る事を改めて感謝し、
今年も明るく元気よく、
メンバーと一緒に同じ時間を過ごしていこうと、気持ちを正した次第です。
ところで、
西川さんが作り上げた総合スーパー・ユニーですが、
僕が幼い頃は、
まだ、“ユニー” ではなく “西川屋” と言いました。
六番町の交差点、
あの、
上に新幹線のローゼ橋がある所(・・・って、名古屋の人にしか通じないけど(笑))の
すぐそばに、それはありました。
母親の実家から近かった事もあり、
母親や祖母に連れられてよく行ったものです。
確か、
僕が小学校に上がる頃にユニーに変わったと思いますが、
母親や祖母は、その後もずっと、
「西川屋」
って呼んでいました(笑)。
いちばん上の階(5階だったかな)にゲームコーナーがあり、
怪獣の絵が描かれた板が電動で出てくる、射的ゲームがあったのを憶えています。
確か、
上手から出てくるのがゴモラの絵で、
下手から出てくるのが名も無き怪獣(今で言う “ぱち怪獣”) の絵でした。
その2枚が交互に出てくるだけの、
誠にもって子供騙しな(笑)内容でしたので、
ゲーム自体は特に面白いとは思わなかったのですが、
怪獣の絵(特にゴモラの方)が見たくて、
西川屋へ行く度に
母親や祖母にねだってやらせてもらった記憶があります。
また、
オモチャ売り場の事も、よく憶えています。
親戚一同が集まるお正月には、
毎年、
お年玉がもらえる = 西川家でオモチャを買ってもらえる、
と決まっていましたので、
いくつかの幸せな思い出が、
眩いくらいに輝いて脳裏に焼き付いているのです。
中でも、
仮面ライダー2号のソフビ人形
(バンダイのスタンダードサイズ、あの、マスクが着脱可能のヤツ)を
叔母に買ってもらった時の事は、
特に印象深く残っています。
僕が小学生になって初めてのお正月でした。
以前にも何度か述べましたとおり、
母親は、
僕が小学校へ上がるのを機に、
ソフビ人形から卒業させるよう、 “圧” をかけてきたのですが(笑)、
遠方に住むその叔母はそんな事情を知りませんので、
例年と同じように
僕を西川屋のオモチャ売り場へ連れて行ってくれて、
「何が欲しい? また怪獣?」
と聞いてくれました。
そして、
僕が迷わず指さした2号ライダーのソフビ人形を
あっさり買ってくれたのです。
当時の僕の頭の中は『仮面ライダー』一色でしたし、
1号ライダーよりも
2号ライダーの方が好きでしたので、
2号ライダーのソフビ人形は、ずっと欲しくてたまらなかったオモチャ。
買ってもらえて、めちゃくちゃ喜びました。
ただ、
母親が良い顔をしない事はわかっていましたので、
「いつまでそんな物を欲しがるの!?」
と怒られる最悪の事態も想定し、身構えもしました(笑)。
決戦の時はすぐにやってきました。
エスカレーターのところで、
別の売り場で買い物をしていた母親と合流したのです。
僕は、
その2号ライダーのソフビ人形を
手放すものかとばかりに胸に抱きしめながら、
「仮面ライダーだけは、特別だから」
と、必死で言い訳しました。
すると母親は、
怒ったりはせず、
買ってもらっちゃったンだから仕方ないわねぇ、
みたいな表情でスルー。
ホッとしました。
でも、
やや拍子抜けした感もあり、
満足なンだけど消化不良のような、
なんだかよくわからない気持ちになった事を憶えています。
まぁ、
叔母の前でしたし、
お正月という事もあって、大目に見てくれたのでしょう。
まさか、
約30年後
自分がこの世を去る時に及んでも、
その息子が仮面ライダーからもソフビ人形からも卒業しないでいるとは、
夢にも思わずに・・・(笑)。
そういえば、
以前、
歌手の前川清さんが、
名古屋の或るラジオ番組で、
「僕、若い頃、名古屋に住んでたンですよ。
熱田区の六番町。
ほら、あの、交差点の上に新幹線の・・・」
って、
おっしゃってるのを、聞いた事があります。
なんでも、
デビュー前の貧乏だった頃だそうで、
喫茶店でコーヒーを飲んだらお金が足りない事に気づき、
となりのテーブルに座っていたおばさんに、
「お金が無いので貸してもらえませんか?」
と頼んだら、
「なんで見ず知らずのあんたに、私がお金を貸さないかんの?」
と怒られた、
なんてエピソードを、お話されていました。
結局、お店のマスターが “付け” にして下さったそうですが、
おばさんもなぁ、
その貧乏青年が、後の “前川清” だとわかってりゃあねぇ・・・(笑)。
なので、
僕は今でも、
あの辺りの喫茶店に入ると、
若き日の前川清さんが
コーヒーを飲んでいたのはここかもしれない・・・、
なんて考えて、
独り、楽しんでいます(笑)。
現在の六番町(国道1号線)。 向かって右側、 今はナフコになっている場所に、 西川屋(ユニー)がありました。 その先に釣具屋があって、 さらにローゼ橋を挟んだ向こう側には “みゆき” っていうパチンコ屋がありました。 みんな、無くなっちゃったなぁ・・・。 ローゼ橋の色は、 いつ、この色に変わったンだっけなぁ? 僕が子供の頃は、 やや青みがかったグレー、だった気がします。 |
あと、
芸能関係で、
もうひとつ六番町にまつわる話があります。
若い人は知らないかもしれませんが、
昔、吉本新喜劇に、
伴大吾さんという役者さんがいらっしゃいまして、
『あっちこっち丁稚』にもレギュラー出演されていて、人気がありました。
でも、
借金で首が回らなくなって行方不明になってしまい、
急にテレビで見られなくなってしまいました。
子供心に、
淋しかったのと同時に、
なんだか大人の世界の怖い面を知ったようで、暗い気持ちになりました。
その後、消息がわかり、
正式に吉本新喜劇を辞めて、
芸能界からも身を引かれたのですが、
そんな矢先、
或る名古屋市内のマンションに伴大吾が住んでいる、
という噂が流れまして、
それがなんと、
六番町のマンションだったのです。
母親の実家からとても近い場所でしたので、
その実家で祖母と暮らしていた従弟が、すぐに噂を確かめに行きました。
すると、
本当に伴大吾さんが住まわれていて、部屋にも上げてくれたそうです。
しかも、
たまたま間寛平さんが来ていらっしゃったそうで、
その従弟は、
御二人からサインをもらって帰ってきました。
僕は『あっちこっち丁稚』が大好きでしたので、
随分羨ましく思ったものです。
おそらく、伴大吾さんは、
寛平ちゃんにも会わせてあげればこの子が喜ぶだろう、
と思って迎え入れて下さったのだと思いますが、
御自身は芸能人(人気商売)を辞めてしまった後だったのに、
優しい人だったンだなぁ・・・、
と、今でも温かい気持ちになる話です。
好きで観ていた人ですし、
やっぱ、ずっとテレビに出ていてほしかったものです。
伴大吾さんだけではありません。
吉本新喜劇には、
めちゃくちゃおもしろいのに
借金が原因でいなくなっちゃった役者さんが、何人もいらっしゃいます。
「まぁ〜、ご機嫌さん!」の谷しげるさんとか、
ずーっと首を振ってるだけの淀川五郎さんとか・・・。
もったいないですよねぇ、ホント。
今更ながら、とても残念に思います。
・・・え?
関係無い事をダラダラ書くな、って?
スミマセン(汗)。
でも、
関係無い事、ってわけでもありません。
これまでの生活の中で、
見た事、聞いた事、体験した事、
そのすべてが、
“現在の僕” を作り上げた栄養分ですので、
どんな些細な事でも、
自身の記憶に残っているような事柄は、
このエッセイに書いていきたいし、
そもそも、
西川俊男さんの急逝から西川屋六番町店にまつわる思い出が甦り、
人はいつか必ず死んでいなくなるものだし、
形あるものはいつか必ず壊れて無くなるものだ、
という
この世の無常を改めて痛感して筆を執った今回、
だからこそ僕が言いたいのは、
“無常” を “無情” と捉えずに生きてこそ、“人生” である、
という事。
コーヒー代が払えなかった若き日の前川清さんの話も、
部屋を訪ねてきた子供に優しくしてくれた伴大吾さんの話も、
僕を
“無常” を “無情” と捉えない人間にしてくれた、貴重な栄養分なのです。
子供の頃の思い出を愛する僕を、
時々、
「過去を振り返ってばかりで後ろ向きだ」
と
蔑む人がいますが、
その指摘は違うと思いますね。
僕はべつに後ろ向きなわけじゃありません。
ちゃんと、
希望のある未来を見つめて生きてます(希望どおりの未来が拓けるかどうかは別として(苦笑))。
・・・ってか、
過去を振り返る = 後ろ向きな生き方
って解釈が、
そもそも雑です。安易です。軽薄です。
まぁ、
前向きに生きる事の必要性を訴えたいがために、
勢い余って、
過去を、
振り返る必要の無い “どーでもいいもの” として位置づけちゃってるンでしょうけど、
過去の積み重ねが現在なのですから、
過去がどーでもいいなら、
現在もどーでもいい、という事になります。
どーでもいい現在を生きている人が、
いったい、何を自信にして他人の生き方を馬鹿に出来るのでしょう?
笑ってしまいます。
過去は常に振り返らなきゃダメですよ。
過去を振り返る・・・、
つまり、現在の成り立ちを見つめ直す事によって、
今日、自分が生かされている事への感謝の気持ちが生まれ、
それが充実した日々の暮らしに繋がっていくのですから。
過去を振り返らない人が
やみくもに前向きに生きたって、時間が無駄に無意味に流れるだけです。
“過去は振り返らずに前向きに生きる”
なんていうのは、
薄っぺらい己の人間性を認めたくないがための、単なる “誤魔化し” にしか過ぎません。
僕はそう思います。
現在や未来を意味のあるものにしたいのなら、
まず、過去に意味を持たせなきゃ。
恥ずかしくて消し去りたいような出来事や
辛くて苦しかった経験を
たくましく生きていくエネルギーに変えたり、
あるいは、
他人からは取るに足らないと思われるような小さな思い出でも、
自分自身で何か価値を見出したり・・・、
そうすることで、
過去を単に “過ぎ去った時間” にしない事が大切なんだと思います。
それが、
“無常” を “無情” と捉えない、って事です。
僕はそうやって生きてきたので、
今日の自分を作り上げた栄養分である “思い出” が、
愛しいのです。ありがたいのです。
思えば、
ソフビ人形のコレクターなんかになったのも、
過去を大切にしたい、
過ぎた日々に価値を見出して意味を持たせたい、
という思いが起こした、現象の一つだったのかもしれません。
そんな気がします。
西川屋六番町店は無くなっても、
怪獣の射的ゲームがあったゲームコーナーや
仮面ライダーの人形を買ってもらったオモチャ売り場の思い出が
僕の心の中で輝き続けているのは、
“無常” が “無情” でない事の証。
これからも、
過去を振り返って生きていきますよ、僕は。
もちろん、
オモチャを買ってもらっていた子供の頃のような
幸せな思い出ばかりじゃないけど
(っていうか、
大人になってからは辛い事の方が圧倒的に多かった気がする)、
こうして生かされている現在に感謝していますし、
未来は、
やっぱこの手で、切り拓きたいですから・・・。
何歳になっても、それは変わりません。
ソフビ人形のコレクションは、その意思表示でもあります。
【余談】
僕が小学校に上がる際に、 母親が西川屋の文具売り場で買ってくれた、プラスチック製の筆箱。 これを買い与えた時、きっと母親は、 “小学生になったら、怪獣なんか卒業して一生懸命勉強する我が子” をイメージしていた事でしょう。 ・・・無念だったろうなぁ、さぞかし(笑)。 この筆箱が、 世の無常に逆らい、いまだに壊れる事なく我が家に残っているのは、 そんな母親の未練が取り憑いて、 “まだ使命を果たせていない” と筆箱自身に思わせているからかもしれません(笑)。 ところで、この筆箱、 裏側に、 なんと “西川屋” とロゴ(?)が入っています。 ・・・オリジナル商品だったのでしょうか? |
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