真水稔生の『ソフビ大好き!』


第92回 「僕が人生の時 〜楽しい40代〜」 2011.9

僕の舞台を久しぶりに観に来てくれた息子たちと、数日後、一緒に食事をした。
何か芝居の感想でも聞かせてくれるかな、と思ったら、
高校生の次男に、

「年収はいくらなの?」

と、いきなり聞かれた。
あんな事をしてて生計が立つのか、ちゃんと暮らしていけるのか、
心配・・・、
というより、疑問に思ったらしい(笑)。

確かに、
芝居だけでは食べていけず、いまだにアルバイトをしている日常なので、
ちょっと情けない気分になったが、
僕は彼らに “人生は楽しむものである” という事を
身をもって教えたいので、
10代の子供が疑問に思えるほど、
生き生きとして楽しそうな40代のオッサンの姿を見せてやる事が出来て、とりあえず満足でもあった。

彼らがまだ小さかった頃、
憂鬱な顔でネクタイを締めて会社に出かける姿を
毎日子供に見せてる自分が嫌だったし、
これでいいのかな? なんて自問してた事もあったので、
少なくともその頃よりは納得出来る人生を送っている、と自分では思っている。

以前にもチラッと述べた事があるが、
僕は若い頃から演劇の勉強をしていたわけではないし、
ただテレビドラマや映画が大好きだっただけで、
趣味感覚で役者の真似事のような事はしていたものの、
職業として “役者” になろう、などと真剣に考えた事はなかったから、
現在のような生活状況になるなんて、想像もしていなかった。
だけど、
よく考えてみると、
心のどこかで、子供の頃からこういう人生を歩む事を決めていたような気もする。
おそらく、それは、
現在の暮らしが、
無理する事も苦痛に耐える事も無い、素直に楽しめるものであるからだと思う。
自分にとって、自然な感じがするのだ。

現状に疑問や不満を抱えながらも
これが己の人生だと信じてサラリーマンを続けていたけれど、
器量が無く、
離婚して家も貯金も失い、
更には、
二度目の結婚も破談に終わり、
ふと気づけば、
夢も希望も生きがいも何も持たぬまま、惰性で会社に通っていた。

 なんで僕は
 こんな暮らしをしているのだろう?
 家も家族も無いのに、
 何のために、誰のために、
 毎日会社に拘束されて、やりたくもない仕事を我慢してやっているのだろう?
 こんな事を続けていて、
 何が嬉しいのか、誰が幸せになるのか。
 まったく意味が無いではないか。

そう思った。
だったら
好きな事だけして楽しく暮らそう、
神様が僕を「家族を持つには不適格」と言うなら
その通り生きてやろう、
と、
半ば自暴自棄な心情から役者の道を歩む事を決め、現在に至るわけだが、
そんな、
不順・不真面目極まりない動機で始めた上に、
しかも食えていないのだから、
何の自慢にもならないし、
誰の目から見ても、決して成功した人生とは言えないだろう。
当然、思い通りにいかない事だらけだし、犠牲にしているものだってたくさんある。

けれどそれでも、
無理せず意地も張らず
心の赴くまま素直に選んだ生活であるがゆえ、
20代や30代よりも毎日が楽しい。
充実も感じる。
自分の人生を生きている、という気がするのだ。

幸せな事だと思う。
そりゃあ、芝居だけして暮らしていけたらそれに越した事はないが、
世の中、そんなに甘くない(笑)。
だいたい、
役者なんてものは、食えないのが普通なのだ(すごい開き直り(笑))。
最初からわかっている事なので、
今の生活状態を、特に辛いとか苦しいとか思った事はない。
むしろ、
収入が安定していたとは言え、
誇りも愛情も持てない仕事を我慢して続けていたサラリーマン時代の生活の方が、
今思えば
よっぽど辛くて苦しかった。


人それぞれ、
いろんな人生の歩き方、いろんな幸せの形があるとは思うが、
生活を言い訳にして、
意欲の持てない仕事を嫌々やっていては、
いつまでたっても充実した暮らしは送れないだろう。

「俺はやりたくない仕事でも、頑張ってやって成功した。仕事とはそういうものだ」

って反論する人もいるだろうが、
それは、
自分が勝手に “やりたくない仕事” と思い込んでいただけで、
その仕事は、
実はその人に合った、その人が一生懸命頑張れる、頑張るに値する、
天職と言えるものだったのである。
充実した幸運な人生を、その人は楽しく送ってきたのだ。

イチロー選手が
子供の頃は野球が大の苦手だった、なんて事はないし、
天童よしみさんが
昔は音痴だった、なんて事もない。
また、
ビートたけしさんや松本人志さんが、
元々はお笑いのセンスが全く無く、冗談のひとつも言えない人間だった、なんて事もないだろう。
それぞれ、
御自身の得意とする分野で、その才能を発揮されているだけである。
もちろん、
その道の頂点に立つような人たちなのだから、努力や苦労もしていらっしゃるだろうが、
それを辛い・苦しいと思いながら
無理してやっているわけではないのだ。
好きな事・頑張れる事をやり続けてきた結果、
楽しみながら人生を歩いてきた結果、
多くの人に認められ、現在に至っているのである。

だからと言って、
誰もが同じようにそんな凄い人になれるというわけでは
もちろんないが、
自分を信じて、自分の好きな事をやり続ける、というのが
充実した人生を送る第一条件であり、とても大切な事だと思うのである。
人生は楽しまなきゃ損なのだ。

自分にとって特に価値を見出せないような事を淡々とやり続けたり、
あるいは、
自分の苦手な事を我慢してやり続けたりして、
人生を楽しむ事なく、夢も希望も無いまま毎日を過ごしている人が、
幸せをつかみ取るなんて事は、まず、ありえない。

自分の人生を楽しむ事を、
生活を理由にあきらめたり否定したりする人は、
そうする事で、
つまらなくて退屈な己の人生を、ただ正当化したいだけ。
熱いときめきも幸せの実感も何も無い毎日を、無理矢理納得したいだけ。
本当の自分になれないもどかしさを、ごまかしているだけなのだ。
そう、
心をごまかしているのだ。

・・・浜田省吾さんの『MONEY』に、そんな歌詞あったな(笑)。


浜田省吾さんと言えば、
僕が学生の頃ふと読んだ雑誌に載っていた直筆のメッセージを憶えている。

   目の前にある、簡単に手に入る幸せのようなものは、本当の幸せじゃない。
   
どうか、みんなが、人生において、
   
本当の幸せを手に入れる事を、僕は願っています。

正確ではないけれど、確か、こんな文面だった。
読んだ時は、
まだ若かった事もあり、あんまりピンとこなかったけれど、
いまだにそれが心に残っているという事は、何某かの暗示を、その時に受けたのだろう。
現在の生活状況や自身の人生観と照らし合わせると、余計にそう思える。


また、
僕はソフビ怪獣人形のコレクションをずっと続けてきた中で、
理屈ではない感覚として、
自分の中に沁みついた信条がある。
それは、
“人間は自分に必要な事しか、しない・出来ない” という事。


「キリがない」とか「もう飽きちゃった」とか言って
コレクションをやめてしまった友人・知人が何人もいたけど、
いまだにコレクションを続けている僕と
その人たちとの違いは、
コレクションする事が、自分にとって必要であったか、必要でなかったか、
ただそれだけ。
簡単な話だ。

僕と同世代の男性なら
おそらく9割以上が、怪獣の事が好きだと思う。
懐かしいソフビ怪獣人形を見れば、目を輝かしたり、心癒されたりする事も必至。
子供の頃持ってた、とか、
子供の頃は買ってもらえなかった、とか、
そんな感情が濃厚に湧き出て、購入して集めてみたくもなるだろう。
ただ、
コレクションとして続けていくには、想像以上に根気とお金が要る。
マイペースで楽しみながらボチボチやって充実するほど、コレクションというものは甘くないのだ。
だから、
大概の人は続かない。
生活を圧迫させてまで怪獣のオモチャを集めよう、なんて、普通思わないだろうから。
いくらソフビ世代だといっても、そこまで没頭はしない。
たまたま僕は、
それほど怪獣のソフビが好きだっただけ。
収集活動が性に合ってて、
「毎日同じ服着てるね」って馬鹿にされたり、
お腹いっぱい御飯が食べられなかったりしても、
ソフビを入手していく事で幸せが感じられる人間であった、というだけである。

人間という生き物は、
自分が苦手な事はやらないように脳が出来ているし、やれないように体質が出来ている。
ずーっと続けてやっていける事は、
苦痛にも負担にもならない、自分の性分に合っている事のみ。
何かの事情で、
自分の意思とは異なる状況に身を置いていても、
結局、最後は、
自分の意思に合った状況に辿り着くものである。

コレクションをやめた人も、
コレクションを続けている僕も、
自分自身にとって自然な道を、必要に迫られ選択しただけ。
無理も我慢もしなくていい、いちばん自分に合った状態に、
必然的に納まっただけである。
まさに、
人間は自分に必要な事しか、しない・出来ない、というわけである。


趣味・道楽なるものは、
仕事と違って、
何のしがらみも無く、心の状態がそのまま行動に現れるので、実にわかりやすい。
興味が湧けば誰でも自由に始められ、
続けたい人は続けるし、やめたい人はやめる。
それだけの事だ。
また、それで良いのだ。
それが人間にとって無理の無い自然な事であり、
自分に合った暮らし、充実した毎日を送る最低条件なのだから。

でも、実は、
それは仕事についても、同じなのである。
好きじゃない事や苦手な事、
つまり
自分にとって必要じゃない事を
心ごまかしてやっていても、何も実りは無い。無駄なのだ。
そりゃぁ、
努力や辛抱をする事は必要だし大切な事だが、
人間、本当に好きな事・本当にやりたい事のみでそれが可能であり、
無理してやっている事はいつか必ず破綻するから、
物事を嫌々続けても、意味が無いのである。
頑張る事と無理する事は違うのだ。

自分は所詮この程度の人間だ、とか、
これが身の丈にあった暮らしだ、とか、
無理して自分に言い聞かせているうちは、その人の人生はまだ始まっていない、と言える。
自分に必要な事しか、しない・出来ない生き物である以上、
人間は、
無理に言い聞かせなくても、
最終的には身の丈にあった暮らししか出来ないようになっているので、
心をごまかす必要は無いのである。
自分の好きなように生きて、自分に合った毎日を送ればいいのだ。
目的意識を持って、
自分自身が充実していなければ、
誰かの役に立ったり社会に貢献したり、なんて事も、出来っこない。

神様と両親からもらった大切な命、
その、たった一度しか味わえない貴重な己の人生を、
楽しくない事に使ってどーするの?
自分に必要の無い事に使ってどーするの?

40歳にしてサラリーマンを辞めて役者デビュー、などという、
傍から見たら “とち狂った” としか思えぬ行為に出たのも、
僕の中に、
浜田省吾さんのメッセージや
ソフビ怪獣人形のコレクションを通じて得た、そんな人生の指針があったからである。

ソフビ怪獣人形のコレクションに倣って、
人生そのものを、“好きな事・やりたい事” を最優先するよう切り換えたら、
浜田省吾さんのメッセージに応えられるような、
本当の幸せを追い求める生き方にシフトチェンジ出来た気がする。
自分の気持ちを道しるべにしたら、
40歳にして初めて、
充実を感じる楽しい人生になったのだ。

・・・まぁ、でも、
別れた妻をはじめ、
ことごとく女に逃げられた結果こうなっただけで、やっぱり何の自慢にもならないけどね(笑)。


       
                             
         


また、
サラリーマン時代、通勤電車の中で目にした中吊り広告の、こんなコピーも憶えている。

   10代、笑ってた。
   20代、悩んでた。
   30代、疲れてた。
   そして、今、40代・・・。

僕は幼い頃から、なぜか、“40歳の時の自分” というのを
ひとつのポイントに設定して生きてきた。
たぶん、
子供心に “大人=40歳” みたいなイメージが漠然とあったからだろうが、
40歳の時に、納得のいく人生を送れていれば、
20代や30代が
どんなにカッコ悪くたっていい、と思っていたのである。
周りの友人たちは、
成人したからどうとか、
三十路を迎えたからどうとか、
その都度気にして人生を見つめ直しているようだったが、
僕は何の心境の変化もなかった。
とにかく、“40歳” を見据えて毎日を送っていたのだ。
なので、
人生の真価は40代で問われる、といった内容のこのコピーに共感を覚え、印象に残ったのである。

だからといって、
別に具体的に計画を立てて計算しながら40代を迎えたわけではないので、
これまた何の自慢にもならないけど、
結果として
40歳でサラリーマンを辞めて役者デビューする事になったのは、
ただの偶然ではないかもしれない、と思う。


辛い事、苦しい事、悔しい事、面倒くさい事、理不尽な事・・・、
人生には、
いろんなイヤな事がある。
それらに
傷ついたり打ちのめされたりしても、
それでも何か光を、
ほんの少しだけでも幸せを、
人は求めて生きていくもの。
だから、
結局最後は、
自分の進みたい方向に自分の意思で向かう事になる。
そういうものなのだ。
だったら、
毎日の暮らしを、
自分の好きなように、
自分の気持ちに素直に、
楽しみながら生きた方がいいに決まっている。
いちいち、
嘆いたり、落ち込んだり、
無理して自分をごまかしたり、弱音を吐いてあきらめたり、
そんな事に時間や心を費やしていても、人生がもったいないだけなのだ。



コレクションも芝居も、
まだまだ不充分で未完成で、
他人が認めてくれるレベルにも、自分自身が納得出来るレベルにも達しておらず、
恥をかきながら暮らしているだけの僕だが、
それが僕なのだから、どうしようもない。
そうやって生きていくしかないのだ。
ただ、
無理も我慢もしていないゆえ、
この40代の毎日が、僕はとても楽しい。
心をごまかさず、本当の自分で送る生活は、いたって快適なものである。


  僕が小学校に上がった年に誕生した仮面ライダーも、今年で40歳。
流行ったり廃ったり、
甦ったり途絶えたり、
これまで、児童文化に仮面ライダーがいない時代もあったが、
結局、
毎年新しい仮面ライダーが生み出される、
現在のような状態が定着した。
歴代のライダーが全員登場する映画が大ヒットする昨今、
40年前に誕生したこのキャラクターの真価が、
僕は初めて客観的に理解出来た気がする。

子供にとっても大人にとっても、“仮面ライダー” は必要だったのだ。

物事は、必要とされる状態に落ち着くもの。
子供たちのヒーローとして紆余曲折して生きてきた仮面ライダーも、
これからは、
国民的ヒーローとして、楽しい40代を送っていく事になるだろう。

そういった意味では、
子供の頃「仮面ライダーになりたい」と憧れたのは
あながち実現性の無い夢でもなかった、と
言えるのではないだろうか(笑)。


        ふと思ったのだが、
40代に入ってからの僕は、
子供の頃に
ソフビ怪獣人形で遊んでいた時の気持ちに
限りなく近い精神状態で
毎日を過ごしている気がする。

夢見る思いに従い、
自分の世界を大切に、
胸をときめかせながら生きる・・・、
そんな自由な日々が、
楽しくないわけがないのだ。




冒頭で触れた舞台の打ち上げで演出家の方と飲んでいた際、
お酒の席であるのをいい事に、

 「僕を否定する人を僕も否定するし、
     僕を必要としない人を僕も必要としない。
           僕の人生の価値は、僕が決める!」

なんて、つい偉そうに語ってしまったのだが、

 「かねがね貴方は自由な大人だと思ってましたが、本当に自由ですね」

と、
その演出家の方は笑いながらも、
僕の生き方を認め、共感してくれた(なかなか見込みのある演出家だ(笑))。


人生は、やっぱ楽しまなきゃ、つまらんですよ。
好きな事、やりたい事を、
他人の目など気にせず、自分のために一生懸命やるべきです。
どっちみち人間には
それしか出来ないのだから。


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