第87回 「陽はまた昇る」 2011.4
こう見えて(どう見えて?(笑))、僕は子供が好きである。
仕事で共演する場合も、
大人の俳優たちより
子役の子たちと仲良くなってしまうくらいだ。
精神年齢が近いからだろ、と言われたらそれまでだが(笑)。
3年前、『二十四の瞳』の舞台に、
生徒の父親役で出演した際、
初日の顔合わせが終わって帰ろうとしていたら、
僕の娘役をやる事になった小学1年生の女の子が近づいてきて、
「私のお父さん?」
と聞いてきたので、
「そうだよ」
って答えたら、
なんとも嬉しそうな顔をして去っていった。
その笑顔、その行動が、
可愛くて、いじらしくて、愛しくて、
僕はたまらなかった。
大勢の子供たちが登場する芝居なので、
稽古が何日も続くと、
共演者の中には、「ガキがうるさい」と言って疲れてしまっている人もいたけど、
僕はどんどん元気になっていった。
毎日がとても楽しかった。
あの時、自分が “子供好き” である事をはっきりと自覚した。
若い頃は、子供なんて、うるさくて鬱陶しいだけだった。
映画館や電車の中などで騒いだり泣いたり、大嫌いだった。
ところが、今は違う。
子供が可愛くて可愛くて仕方がない。
映画館や電車の中などで騒がれようが泣かれようが、全然苦にならない。
むしろ、それで癒される。
ついつい微笑みかけたり話しかけたり、時には一緒になって遊んでしまう。
人間、変われば変わるものである。
でも、まぁ、
30年、40年・・・と生きてきた中で、
いろんな事を経験して、
物事の考え方や見方も変わったし、
なんたって、
結婚して子供が出来て自分自身も親になっているのだから、
“子供嫌い” が “子供好き” に変わっても、別に不思議ではないかもしれない。
それに、
以前、二度目の結婚を考えた女性に
子供(幼い姉弟)がいて、
その子たちと過ごした日々も、大きく影響していると思う。
無垢で無防備な心が
血の繋がりを超えて僕を慕ってくれた時、その美しさ・尊さを、強く思い知った。
この子たちを守りたい・・・、
この子たちのためならどんな苦しみにも耐えられる・・・、
そう思った。
その、いたいけで小さな二つの命を、僕は心から愛した。
だけど、
半同棲生活状態にありながら、結局、再婚には至らず、
父親の役目を途中で果たせなくなってしまうという恥ずべき事態を、二度も繰り返す事になってしまった。
悲しくて悔しくて、
情けなくて申し訳なくて、
自分のふがいなさを憎む気持ちが、常にこの胸を責め続けている。
そんな僕に出来る事といえば、
それは、
その子たちや離れて暮らす息子たちの幸せを、ただ祈る事だけ。
そばにいて直接関わったり何かしてあげたり出来ない分、その思いに懸けるしかない。
それしかないのだ。
そういう事情や感情から、
すべての子供を我が子たちとダブらせて見てしまう事もあり、
柄にも無く優しい気持ちと
ある種の使命感のようなものを抱いて、子供と接するようになったのだと思う。
子供たちに “愛” を伝えたい・・・、
そうしようとする大人でいたい・・・、
そう思いながら、
僕は毎日を生きているのである。
よって、
子供と過ごしていると元気が出るのだと思う。
“大人の在り方” を強く意識する事で、
生きるための気力や活力が湧いてくるのだろう。
“愛” を伝えたい、だなんて、
なんだかもっともらしい事を言いながら実は、
ただ単に、
神様から父親である資格を二度も剥奪されたダメ男が
自分自身の生きる価値を
無理矢理見出しているだけかもしれないが、
それでもいい。
たとえ言い訳や身の程知らずの思い上がりであったとしても、
たとえ神様が認めてくれなくても、
僕が僕であるために、
子供には “愛” を伝えたいのだ。
なぜ今回こんな事を書いているのか、というと、
僕がコレクションしているアンティークソフビの造形が、
まさに
子供たちに “愛” を伝える形であった事に、
今更ながらつくづく感動しているからなのである。
おもちゃメーカーや原型師によって、
実物の怪獣とは
ちょっと違う姿に変形されて立体化された、昭和の怪獣人形たち。
だが、
単に “オモチャは可愛らしく愛嬌があるもの” という当時の常識に基づいて作られたわけではなく、
やはり、
それで遊ぶ子供たちのためを思ってデフォルメされているのであり、
その形は、
大人たちの “子供に対する温かい気持ち” が導き出したものだと、僕は思う。
それは、
子供たちが望むものと
必ずしも一致していたわけではないかもしれないし、
子供たちのためを思って・・・、と言いながら、
ただの子供だましに陥ってしまっていた部分もあるかもしれないけれど、
そういう事すべて含めて、
それは、
当時の大人たちの、“愛” なのである。
子供の思いとちょっとズレていたり、
大人の感覚で勝手に押し付けられた形であったとしても、
そこに、
子供たちの健全なる成長を願う “思いやり” や “優しさ” がある事を、
僕ら当時の子供たちは、
ちゃんと感じていたのだ。受け止めていたのだ。
だからこそ、僕は、
20年以上の月日が流れて大人になったにもかかわらず、
幼い頃と同じように、あるいはそれ以上に、そのオモチャに惹かれてしまったンだと思う。
ただ “懐かしい” というだけでは、
人生をかけて集めるだけのエネルギーを自分の中に作り出せなかっただろう。
40代後半という年齢になって初めて、
怪獣のオモチャなんかに執着してきた自分自身の行動の “理由” が、
理解出来た。
若い頃は、“夢” とか “ときめき” とかが今と違ってデカいし勢いもあるから、
感覚では解っていたものの、
そんな事をいちいち立ち止まって考えないし、特に意識する事も無かったンだと思う。
大人たちの “愛” が込められたオモチャで育ったから、
自分が大人になった今、
子供たちに “愛” を伝えたい・・・、
そうしようとする大人でいたい・・・、
と思えるのだ、という事がはっきりと認識出来て、
僕は感謝の気持ちでいっぱいだし、
益々ソフビ怪獣人形に対する愛情が増している次第である。
アリスが解散する直前の、
昭和56年11月に刊行された『谷村新司 詞集』のあとがきに、
当時32歳だった谷村さんが、
お子様の幼稚園の運動会で走ったエピソードと
その時の思いが綴られている。
自分が学生だった頃、
子供の運動会で、ムキになって走っているオヤジらしき人物が、
ひどくこっけいに、かっこ悪く見えたものである。
ところが・・・・・・である。
私は走った。
子供の目の前で一世一代のスピードで走った。
かっこ悪いと思って見てた人もいるだろうが、
そんな目をかまっていられない程、必死に走った。
(中略)
世の父親達が子供の運動会で何故にあれほど必死でムキになって走るのかが、
やっと理解出来たような気がした。
決してカッコよくはなかったけれど、
どこか優しさや温かみがあって印象に残っている、父親たちの必死に走る姿。
言葉では説明出来なくても、
そこに “愛” がある事を、子供はちゃんと感じていたのだ。
だからこそ、
自分が父親になった時に、同じように必死になって走るのである。
そして気づくのだ。
あぁ、こういう事だったンだな・・・、と。
それは、
子供の頃に親しんだソフビ怪獣人形に
大人になってから再び夢中になってしまった理由が今客観的に理解出来た事と、
同じ “仕組み” によるものだと思う。
恥ずかしいくらい滑稽でも、
一生懸命な父親を嫌いにはならなかったように、
実物の怪獣に似ていない、なんて理由で僕らはソフビ怪獣人形を拒否しなかった。
その形から、
当時の大人たちの “愛” が、ちゃんと伝わっていたからだ。
懐かしいソフビ怪獣人形を見て
心が和んだり癒されたりするのは、
意識の彼方に染み込んだその “愛” の記憶が呼び覚まされ、
優しく穏やかな気持ちになるからである。
昨年、
託児支援者養成講座なるものに、講師として呼んでいただいた事があった。
保育士等をめざす人たちに、
“言語表現・朗読” という科目の講義を、僭越ながらさせていただいたのだが、
幼い頃の自分自身はもちろん、
幼い頃の息子たちや先述した二度目の我が子たちの事などを思い出しながら、
いたく感慨深い気持ちで
「幼い子供に読み聞かせをする際には、
愛を込めて・・・、特には過剰な表現も・・・」
なんて熱く語っている最中に、
あぁ、これってソフビと一緒だぁ、
って、気がついた。
それが今回のエッセイを書くきっかけにもなったのだが、
詩や物語も、そしてオモチャも、
子供たちの夢見る力や空想する力を育むものである事を、改めて認識したのである。
だから、
大人がそれを
子供の心に届けるのであれば、
やはり “良いもの” でなければならない。
それには“愛” が必要なのだ。
子供たちに “愛” を伝えるのが、大人の役目なのである。
それを果たすために
大人が真摯に取り組んだ分だけ、
子供の心は、豊かになり優しくなるだろう。
マルサンやブルマァクのソフビで育った僕は、そう信じる。
大人が子供の目線に立つ、なんて、
そもそも不可能な話だ。
子供の目線に立てないからこそ、大人なのだから。
なので、
大人の目線で良い。
大人の目線で、子供を思い、“愛” を伝えようと努力すれば良いのだ。
そうする事に価値がある。
なぜなら、
そういう大人の “思い” に触れた子供が大人になったら、
同じように、
子供に “愛” を伝えようと努力するからである。
僕は、
谷村さんをはじめとする世の父親たちのように、
運動会で必死になって走る姿を
自分の子供たちに見せてやる事が出来なかった。
その忸怩たる思いに、
イジけてクサってしまいそうになる事もよくある。
だけど、
コレクションであるソフビ怪獣人形が、いつもそれを食い止めてくれる。
その、
暖かい陽だまりを思わせる安らかな形を見ていると、
こんな自分でも、
優しさを失わず精一杯生きていれば、
いつかは、
子供たちに “愛” を伝える事が出来る・・・、
そんな気がしてくるのだ。
実物とはちょっと違っててカッコよくないけれど、
なんだか温かみのある人形の、
その雰囲気や存在感から、
当時の大人たちの子供に対する “愛” を、今、しみじみと感じているから。
運動会で必死になって走る姿は見せてやれなかったが、
せめて、
人生というグラウンドを必死になって走っている姿は、ちゃんと見せてやりたいと思う。
自分の子供だけでなく、全ての子供たちに。
カッコ悪かろうが、
ほかの人からどれだけ遅れていようが、
かまわない。
ソフビ怪獣人形のように、“愛” が子供たちに伝われば・・・。
引用 : 『谷村新司 詞集』 谷村新司・著 サンリオ