第8回「ゴジラ人形のこと」 2003.12
今回のテーマは怪獣の代名詞ともいえるゴジラ。
そして
そのゴジラの人形について。
僕が子供の頃は、
現在のように家庭用VTRもレンタルビデオショップも無かったので、
ゴジラは
映画の上映期間中に映画館へ足を運ばなければ会えない “銀幕のスター” だった。
ゴジラだけじゃない。
ラドンやモスラやキングギドラやアンギラスなど、ゴジラ映画に出てくる東宝怪獣たちはどれも、
テレビで見られる身近なウルトラ怪獣たちよりもなんとなく格が上のような印象で、
特別に憧れていた。
よって、
大好きなソフビ怪獣人形を買ってもらう時も、
同じ値段なのにウルトラ怪獣よりも東宝怪獣の方がなんだか高級な気がして、
神経が高ぶった事を憶えている。
袋から出した時の、
目の覚めるようなペパーミントグリーンの光沢が忘れられないガバラ人形や、
躍動美の中に品格が感じられる造形が見事で、なんとも高尚な感じがするエビラ人形など、
“銀幕のスター” にふさわしい、華やかで豪華な雰囲気のものばかりだった。
そんな中、唯一、
主役であるゴジラの人形だけが地味な印象だった。
ライバル怪獣たちの人形と違って、
色は紺色で鮮やかさに欠け、造形も動きの表現がなされているわけでもなく、
華の無い、なんでもない人形だった。
だが、
実はそこに、
子供たちの感受性を刺激する魅力が隠されていたのだ。
地味な色でただ立っているだけ、
という事が、
かえってゴジラの無敵な強さを象徴する事になり、
シンプルであるがゆえに、
“ゴジラ人形こそ怪獣人形の基本”
という認識を、子供たちに強く持たせたのである。
ただ立っているだけで “いちばん強い怪獣” としての存在感をアピールするこのカッコいいソフビ怪獣人形は、
当時の子供たちにとって必須アイテムと言えるオモチャとなったのだ。
友達はみんな持ってた。当たり前のように持ってた。
もちろん僕も、
特別に憧れていた銀幕スター怪獣たちのその頂点に立つゴジラの人形を持っていなければ
怪獣少年としては何も始まらないような気がして、
買ってもらう事を必死で親にねだった。
念願かなってそのゴジラ人形を近所の商店街のオモチャ屋さんで買ってもらった時は、
もう嬉しくて嬉しくてたまらず、
家まで辛抱出来ずに
店先で人形を袋から出してしまい、胸に抱きしめながら歩いた。
帰り道に友達の家の前を通りかかった時、
その友達が2階の窓から顔を出し、
「あっ、ゴジラ買ってもらったんだ!」
と声をかけてくれた。
気持ち良く晴れた日の午後だった。
今でも鮮明に憶えている。
マルサン、ブルマァク、ポピー、ヤマカツ、バンダイ・・・、
いろんなメーカー、いらんな時代のゴジラ人形を集めている僕だが、
それら何かを入手するたびに、
あの時の、2階の窓から聞こえた友達の声が耳の奥に響く。
子供の頃、持っていなければ何も始まらない必須アイテムとして、いわば夢の入り口に立っていたゴジラ人形は、
今は思い出の入り口に立っている。
懐かしい友達の声の、心地よい響きとともに。
また、
ゴジラと聞くと、
最近では松井選手の事を思い出す人も多いと思う。
怪獣並みのパワフルで豪快な打撃とその雄雄しい風貌から “ゴジラ松井” と呼ばれている、
日本が世界に誇る大打者・松井秀喜選手。
その松井選手の話になると、
ついムキになってしまう事が僕にはありまして・・・。
それは、
今から10年前の夏の甲子園、第74回全国高等学校野球選手権大会での出来事。
この大会の2回戦、
星陵対明徳義塾の試合で、星陵の4番だった松井選手が5打席全て敬遠された事は、
社会的なニュースにまでなった。
当時世間は、
全打席敬遠されたうえに試合にも負けてしまった松井選手がかわいそうだ、
というような事を言っていたが、
僕は、
松井選手よりも明徳義塾の監督や選手たちの方がかわいそうでならなかった。
試合に勝って3回戦に進んだものの、
敬遠を指示した監督は非難され、
地元応援団が次の試合には甲子園に出かけず応援をボイコットしたからである。
「卑怯だ」
「高校生らしくない」
この二つが明徳義塾に浴びせられた責めとがめの言葉だった。
僕は、絶対に間違ってると思う。
敬遠は、決して、卑怯な事でもないし、高校生らしくない事でもない。
試合に勝つための純粋な作戦だ。
打たれる可能性がきわめて高いのに敬遠しないという事は、
試合に勝とうと真剣に思ってないという事である。
そんなチームが甲子園に来るわけない。
選手たちは勝つために真剣に練習を重ね、監督は勝つために真剣に作戦を考え、
チームは勝つために真剣に試合をしているのだ。
松井選手は
その翌年には高校を卒業してプロ野球界に入り、
いきなり、当時日本一の打者だった落合選手とジャイアンツでクリーンアップを組んでしまうような、
まれに見る逸材である。
他の選手とはレベルやセンスが突拍子も無く違っていたのだ。
御存知のように、現在ではメジャーリーガーである。
敬遠が、
そんな松井選手の力量をしっかり分析した正しい判断であった事は、疑う余地がない。
ひたむきに毎日毎日練習し、
対戦相手をしっかり研究し、
見事試合を勝ち進んでいった明徳義塾の監督と選手たちは、とても立派である。最高にカッコいい。
にもかかわらず、
非難されたり応援をボイコットされたりしたのだ。
こんなかわいそうな事はない。
なぜ、
そんな目にあわなければならないのか。
高校野球を勘違いしている人が多すぎるのだ。
“隠し球” というものがあるが、
あれをやると必ず、この敬遠と同じように、
「卑怯だ」
「高校生らしくない」
という言葉が乱れ飛ぶ。
あれも非常に不愉快である。
試合中にボールから目を離す走者が悪いのだ。
試合に集中していない選手を、試合に集中している選手がアウトにする事が、
なぜ、卑怯なのか。
なぜ、高校生らしくないのか。
理解に苦しむ。
そんな事を言うなら、盗塁はどうなるのだ?
バッテリーの隙をついて次の塁へ進むなど、卑怯ではないか。
だが、
盗塁した選手を「卑怯だ」とか「高校生らしくない」とか罵る人はいない。
おかしいではないか。
敬遠や隠し球が卑怯で高校生らしくないなら、
盗塁だって卑怯で高校生らしくない行為ではないか。
もっと言うなら、
投手は変化球を投げていいのか?
正々堂々と、ど真ん中のストレートしか投げてはいけないのではないのか?
打者もそれを打ってヒットにしていいのか?
野手のいない所へ打球を落とすなんて、卑怯ではないか。
クダラナイ理論だが、突き詰めればそういう事になる。
つまり、
高校生は野球というゲームで勝ち負けを競ってはいけない、という理屈になるのだ。
まったくもって馬鹿馬鹿しい。アホか!?である。
繰り返し言おう。
高校野球を勘違いしている人が多すぎるのだ。
今夏の大会でも、いきなり不愉快な事があった。
「勝っても良し、負けても良し、一生懸命なプレーを・・・」
などという、
実に軽薄な挨拶を開会式でされた方がおられたのだ。
「負けてもいいから一生懸命やれ」なんて事、頭の中がどう働いたら言えるのだろう。
実に不思議だ。
負けてもいい試合なんてない。
負けてもいいのに一生懸命プレーするわけがない。
だいたい第三者に「一生懸命やれ」なんて言われなくても、選手たちは一生懸命プレーするのものだ。
勝ちたいのだから。
当たり前の事である。
地元の大会で勝ち進んできたから甲子園に来る事が出来たのだし、
これからも勝ち進まなければ甲子園を去らねばならない。負けてもいいわけがないのである。
こういう捻じ曲がった価値観で高校野球を誤って美化するような解釈が、
日本の野球界をむしばむ “癌” なのだ。
高校野球には癌が多すぎる。
誰が何の目的でさせているのか知らないけど、
坊主頭にしなくちゃいけなかったり、派手なユニフォームを着ては駄目だったり・・・。
それらの事柄が
“野球がしたい” という高校生の純粋な気持ちを萎えさせ、
結果として
野球人口を減少させている原因である事は明白なのに、
いつまでたっても改められない。実に嘆かわしい。
だが、
それでも “野球がしたい” という強い気持ちで、野球部員の道を選んだのが、高校野球の選手である。
そんな選手たちが、
雨の日も風の日も、夏休みをむかえても海にもプールにも行かず、
毎日毎日一生懸命練習して、
頑張って頑張って、
やっとたどりついた晴れの舞台である甲子園で
これから試合に挑もうという時に、
「負けてもいいよ」
なんて、どうして言えるのか。
10年前、明徳義塾の監督を非難したり応援をボイコットしたりした応援団と同レベルの、
底無しに低い次元の、哀しい程空っぽの言葉だ。
クドいようだが、もう一度言おう。
高校野球を勘違いしている人が多すぎるのだ。
野球というのは勝ち負けを競うゲームである。
勝つために練習し、勝つために試合に挑む。
真剣勝負だからこそ、高校野球の選手たちはその中からいろんな事を学ぶ。
そこに学生スポーツとしての意義があるのだ。
負けてもいいと思ってやる勝負から学ぶ事は何もない。
高校野球は、オッサンが遊びでやってる草野球じゃない。選手たちは真剣に取り組んでいるのだ。
10年前のあの時、
野球というものを理解しないで、学生スポーツの意義もはきちがえて、
選手たちの気持ちも全く無視して、
非難したり応援をボイコットしたりした、そんな無神経な発言や心無い行為が、
明徳義塾の監督や選手たち、そしてその家族を、どれほど傷つけたろう。
本当に、かわいそうでならない。
まァ、だけど、
そんな世間の雑音や試合に負けた悔しさにも心乱れる事なく
「相手の作戦だから仕方ないです」
と、
落ち着いてインタビューに応じていた松井選手は素敵だったけどね。
まるで、
立っているだけで無敵の強さを感じさせるゴジラ人形のようだった。
・・・というわけで、
ゴジラ人形の話に戻りますが(笑)、
子供の頃ソフビのゴジラ人形で遊んでいた僕らこそ、
どのゴジラ映画も素直に楽しめる “最も幸せな世代” ではないだろうか。
いろんなゴジラ映画があった。
第1作目のゴジラ、チャンピオンまつりのゴジラ、平成ゴジラ・・・、
全ての作品に胸がときめく。
恐怖も怒りも哀愁も、ゴジラの全てが好き。
それが僕らの世代。
初代のゴジラを愛するあまり、ミニラという息子がいるゴジラをどうしても好きになれなかったり
正義の味方になっちゃったゴジラをひどく蔑視したりする人は、
僕らの世代にはあまりいないように思う。
それらの人の心情は理解出来ない事もないが、
ゴジラそのものの迫力の方が僕らの心の中では勝ってしまうのだ。
ゴジラの鳴き声を聞いただけでシビれてしまう、ってところが、僕らにはある。
理屈ではないのでうまく説明出来ないのだが・・・。
ただひとつ言えるのは、
僕らの世代はゴジラの真実に憧れている、という事。
どんな世界観の作品になろうと、
絶対変わらないゴジラの真実、それは “ゴジラは無敵である” という事。
この真実に憧れているから、
僕らの世代は全てのゴジラ映画を愛せるのだと思う。
坊主頭にならなきゃならない事も、
ダサいユニフォームを着なくちゃならない事も、
勘違いした大人から心を傷つけられるかもしれない事も、
全てを覚悟して、
それでも野球がしたい、と野球部に入る高校生の気持ちに似ているかもしれない。
彼等にとって、
“野球がしたい” という事だけが真実なのだから。
真実は何時如何なる時もぶれたりしない。ふらつかない。
色も造形も地味だったゴジラ人形を、僕ら子供たちは誰もが欲しいと思った。
それは、
そのゴジラ人形が、
“ゴジラは無敵である” というゴジラの真実を、ちゃんと表現していたからである。