真水稔生の『ソフビ大好き!』



第74回 「燃えろレオ! 燃えろオレ!」  2010.3

『ウルトラマンレオ』が人生のバイブルだ・・・、って言ったら、
笑う人がいるかもしれない。
でも、
冗談でもウケ狙いでも何でもなく、
僕にとって『ウルトラマンレオ』は、人生の指針が記された、心の経典なのである。
そして、
その第1頁には、こう記されている。

 お前の涙で地球が救えるか?

と。

これは、
第4話「男と男の誓い」において、
敵を倒すための特訓中、
弱音を吐いて泣いている主人公・おゝとりゲンに、
モロボシ・ダン隊長が発した、叱咤の言葉である。

正確には、

 「お前の涙でヤツが倒せるか? この地球が救えるか?
    みんな必死で生きているのに、挫ける自分を恥ずかしいと思わんか?」

だったと思うが、
僕が激しく胸を打たれたシーンの、名セリフである。
別に僕は
地球を守るために戦っている身の上ではないのだが(笑)、
この言葉を大前提にして、人生を生きている。


“悲しみをひとひらかじるごとに 子供は 悲しいと言えない大人に育つ”

と、中島みゆきさんの歌の歌詞にもあるように、
僕ほどの年齢になれば、
甘えの中でぬくぬく生きてる世間知らずな “おぼっちゃま” でもない限り、
辛い時や悲しい時に
いちいち挫けて泣いているヤツはいない。
挫折や孤独を幾度も経験して “人生の現実” というものを知り、
自分の進む道は自分で切り拓くしかない、という事が身に沁みているからである。

ただ、僕には、
それが人生経験によって身につくずっと前、10代の頃から、観念として頭の中にあった。
『ウルトラマンレオ』のせいである。


『ウルトラマンレオ』は、
人生経験と呼べるものなどまだほとんど無いような、無邪気に夢見る幼い子供たちに、
生きる事の厳しさや現実の辛さを執拗なまでに伝えようとした、孤高の特撮ヒーロー番組なのである。
今回は、
そんな『ウルトラマンレオ』について、述べてみたいと思う。





『ウルトラマンレオ』は、
昭和49年の春から1年間放送された、ウルトラシリーズの第7作目。
マンネリ化を打破すべく企画された、特異な “ウルトラマン” であり、円谷プロの意欲作である。

だが、
前作『ウルトラマンタロウ』が、
円谷プロ創立10周年にしてウルトラ兄弟の真打登場、という派手な作品であったため、
スタート当初から “お祭りが終わった後” みたいな淋しい雰囲気があり、
例えるなら、
割り算の答えの “余り” のような、
そんな差別視された感のある、なんだか物悲しい番組だった。

加えて、
レオ自身のキャラクターも、
M78星雲のウルトラの星から来たウルトラ兄弟の一人ではなく、
故郷(獅子座のL77星)をマグマ星人に滅ぼされてしまったために
地球でひっそり暮らしていた孤独な宇宙人、
という設定であり、
“差別視”、“物悲しい”、といった作品のイメージを、揺るぎないものにしていた。

また、レオは、
その設定どおり、元々地球を守るためにやって来たウルトラ戦士ではないゆえ、
戦える時間が3分間よりも更に短い2分40秒であったり、
光線技があまり得意でないようだったり、と
従来のウルトラマンたちよりも戦闘能力が劣る。
よって、
攻めてきた怪獣や宇宙人には必ず一度敗退する。

怪獣ブームが衰退し、
子供たちの興味がロボットアニメに移行しつつある中、
そんな地味で弱いウルトラマンが特撮ヒーローの人気を取り戻せるはずもなく、
視聴率も下降の一途をたどり、
結果として、
この作品でウルトラシリーズが一旦幕を下ろす事にもなってしまった。

冷めたムードの中、惰性で始めたもののやはり不人気で、最後は夢見る力が尽き果てた・・・、
そんな印象の、
とことん哀愁に満ちた番組だったのだ。


当時、僕は小学校の4年生で、
前作『ウルトラマンタロウ』の幼児向けな作風があまりに退屈で、
完全にウルトラから心が離れてしまっていたので、
長年の慣習(笑)で毎週チャンネルは合わせるものの、

 “もうウルトラは、つまらない”

という先入観があったし、
一度敗れた敵を倒すためにレオ(=おゝとりゲン)が行う、
異常なまでに過酷で無茶な特訓シーンにリアリティを感じる事が出来ず、
全くと言っていいほど、
お話の中に感情移入出来なかった。

しかも、
その特訓でゲンを厳しく鍛えるのが、
かつてウルトラセブンとして地球を守ってくれたモロボシ・ダンなのだが、
これも、僕が番組を楽しめない大きな原因だった。

僕は『ウルトラセブン』を見ていた世代なのだから、
『ウルトラセブン』のダンが『ウルトラセブン』以外のウルトラシリーズに出てきたら
絶対に嬉しいはずである。
しかも、
1回限りのゲスト出演ではなく、
地球防衛チームの隊長としてレギュラー出演するのだから、
お話の世界に感情移入して番組を楽しめる事必至である。
ところが、
当時の僕には、これがピンと来なかったのだ。
なぜなら、
『ウルトラマンレオ』に登場するダンは、
『ウルトラセブン』に出ていたダンとは、
まったく別人格のようなキャラクターとして描かれていたからである。
僕の知っているダンは、
地球と衝突しそうになった宇宙都市ペガッサをやむなく破壊する際、
自分の任務が、爆破の前にそこに住む人々を脱出させ地球まで安全に誘導する事だと知り、
地球を守るためにペガッサ星人を殺さずに済むとわかって、
「わーい!」
と、まるでケーキ屋ケンちゃんみたいに無邪気な表情で喜ぶ、純真なダンであり、
宇宙細菌ダリーに侵され一時吸血鬼になっていた事を
乙女心を気遣ってその少女本人には内緒にした、優しいダンである。
だから、
辛く厳しい現実を常にゲンに突きつけ、
恐ろしい形相で非情なまでに激しい特訓を強いるおじさんがそれと同一人物であるとは、
とても認識出来なかったのである。

 「こんな恐い人、ダンじゃないっ!」

そう思っていたのだ。

モロボシ・ダンとは名ばかりの、
ダンとは全然違う非情なオッサンに叱責され、その課せられた特訓に血と汗を流し苦しむゲン・・・、
そんな痛々しくて暑苦しいシーンが毎回繰り返される事に、
僕は拒絶感さえ覚えた。
幼い知力や感受性では、とても受け止め切れない世界観だったのだ。

最終回を見た記憶が無かったので、
たぶん、途中からは、番組にチャンネルを合わす事さえしなくなったと思う。


だが、
中学3年の時、
早朝にやっていた再放送を見て、番組の印象がガラリと変わった。

最初は朝ごはんを食べながら、

 「なんでレオなんだ?
     マンかセブンをやってくれよォ」

などとボヤき、
半ば小馬鹿にして見ていたのに、日に日にのめり込んでしまった。
『ウルトラマンレオ』は、とても面白かったのだ。

まず、
主題歌のカッコよさにやられた。
歌詞、メロディー、それを歌う真夏竜(主人公・おゝとりゲンを演じた俳優)さんの見事な歌唱力、
その全てが琴線に触れ、

 「こんなカッコいい主題歌だったンだ〜」

と感動してしまった。
『ウルトラマンタロウ』によって植えつけられた“もうウルトラは、つまらない” という先入観が、
新番組のこんなカッコいい主題歌さえ
当時は心に届けてくれなかったのかと思うと、
いかに思い込みというものが恐ろしいかを痛感した。

すると、程なく、
お話の世界にも自然と感情移入出来た。
本放送を見ていたのが10歳の時、
再放送を見たのが15歳、
たった5年しか経過していなかったが、
子供の頃の5年間はやはり大きい。
小4と中3では、物事の受け止め方に大きな違いがあるのだ。
以前拒絶していたのがまるで嘘のように、すんなりと僕の中に入ってきたのである。

モロボシ・ダンは、
現在はMACの隊長であり、
ウルトラ警備隊の新人隊員だった時とは立場や年齢も違う、という事、
レオを
ウルトラ兄弟のような心身たくましい戦士に育てて
地球を守らなければならない責任が彼の心を鬼にしている、という事、
それらに納得がいき、

 「こんな恐い人、ダンじゃないっ!」

という壁が壊れた途端、
心の間口と奥行きがパッと拡がって、

 “生きる厳しさや哀しさを鮮烈に謳う”

という番組のテーマが理解出来たのだ。

昔の子供番組なのだから
ツッコミどころや失笑してしまう箇所は当然あったけれど、
作品が訴えかけてくるその熱いメッセージに、
強く惹かれた。
そして、
『ウルトラマンレオ』は、
夢と冒険心がかきたてられる空想特撮ドラマでありながら、
悲壮感あふれる熱血スポ根ドラマとしても楽しめる番組であった事に、初めて気づいたのである。

また、
幼い頃から抱いていたウルトラシリーズ対する思い入れとは少し違った、
魂が激しく刺激されるような、特殊な感覚も覚えるようになった。

  一度負けた相手を特訓の末に倒す、

というそのワンパターンな展開が、
“カタルシス” として、思春期の僕を高揚させたのだ。
しかも、
視聴者としてではなく、まるで自分自身の事のように。

そうなってくると、
先に述べた主題歌のカッコよさが、これでもかと言わんばかりに熱く燃えて胸に響く。
自分自身を奮い立たせる歌でもあるように思えて、
“燃えろ、レオ! 燃えろよ!” という歌詞が、
“燃えろ、オレ! 燃えろよ!” というふうにも聴こえた(笑)。

僕にとってレオは、
マンやセブンやエースのような憧れの存在ではなく、
自分自身を投影してその世界に酔える、初めての “身近なウルトラマン” となった。
苦難にぶつかりながらも、頑張ってそれを乗り越えていくゲン(レオ)に、
僕は自分自身を託していたのだ。
だからこそ、
冒頭で紹介した、

 「お前の涙で地球が救えるか?」

というダン隊長の言葉が、強く深く胸に刻まれたのだと思う。

そして、40代も半ばを過ぎた今、
つくづく、
その言葉の価値や意味を実感している、という次第である。

『ウルトラマンレオ』は、
人生においてとても大切な事を、視聴者である子供たちに発信していたのだ。

ただ、
やはりそれは、
幼い子供には受け入れてもらえないテーマだったと思う。
『ウルトラマンタロウ』を幼稚っぽく感じてしまう年頃だった僕でも、
恐いモロボシ・ダンや過酷な特訓シーンを拒絶したのだから、
『ウルトラマンタロウ』を喜んで見ていた幼児なら、
なおさら飲み込み不可能だったに違いない。
番組開始早々から視聴率の低迷に苦しんだのも、無理はない気がする。

なので僕は、
思春期においてこの作品の再放送と出逢えた事を、とても幸せに思うのである。


ブルマァク製 ウルトラマンレオ タカトク製 ウルトラマンレオ

ブルマァク版のサイズバリエーションは、
後列、全長約28センチ、
中列、向かって左から、全長約22センチ、約19センチ、
前列、向かって左から、全長約14センチ、約11センチ2種、約6センチ、と豊富だが、
タカトク版の方は、
向かって左から、全長約28センチ、約15センチ、の2種のみ。


また、
約28センチのものは、
メーカーによる違いが、同一サイズで楽しめる。
タカトク版の方は、
額と胸のビームランプ及び両手首のブレスレットが
人形本体とは別パーツになっていてユニークだが、
ブルマァク版とこうして並べてしまうと、
造形的に、明らかに見劣りを感じてしまう。

ブルマァクのソフビは、やはりカッコいい。


すべてのブルマァクソフビの中で
最も小さいと思われる、この全長約6センチのレオ人形。

怪獣消しゴムと間違えそうな大きさや造形である上に、
怪獣消しゴムとセットになって、
ブリスターパックに入って売られていたので、
これがソフビ人形である事を
見逃してしまっているコレクターやマニアもいるかもしれない。

それにしても、
なぜこのレオ人形だけをわざわざソフビにして、
怪獣消しゴムとセットにして発売したのか。
ブルマァクのする事は、ようわからん(笑)。

ようわからん、と言えば、
ソフビ怪獣人形という玩具の人気が下火になったため
前作『ウルトラマンタロウ』の時には
一切発売されなかったスタンダードサイズの怪獣ソフビが、
なぜか『ウルトラマンレオ』では、また復活している。
地味で不人気な番組の怪獣を、
子供たちがすでに飛びつかなくなっていたソフビ怪獣人形で商品化して、
いったいどこに勝算があったのだろう?
・・・不思議だ。

でも、
ブルマァクのソフビメーカーとしての技術力は、この頃ピークに達しており、
発売された6種のスタンダードサイズの怪獣人形すべてが、最高に美しい造形をしている。
マルサンとは違った表現での高い造形力の完成を業界に誇示したいがために、
売れないのを承知で発売したのだろうか?

まぁ、理由はなんであれ、
こんなにもクオリティの高いアンティークソフビは、
それで遊んだ世代の子供にとっても、
またコレクターにとっても、“誇り” だし、嬉しい存在ではある。

惜しむらくは、
オイルショックの影響か、
従来のスタンダードサイズのソフビ怪獣よりも
ひとまわり小さくなっていて、若干迫力に欠ける事だろう。

 
カネドラス 全長約20センチ。


カーリー星人 全長約20センチ。


ケンドロス 全長約19センチ。 
前面の、弧を描くようなスプレーに色違いが有り。向かって左側がメタリックブルー、右側がシルバー。


 
ベキラ 全長約19センチ。 ロン 全長約20センチ。 ギロ星獣 全長約19センチ。


また、
第1話において、我らがウルトラセブンを負傷させ変身不能な体にした、
憎きマグマ星人とレッドギラス&ブラックギラスのソフビは、
なぜかスタンダードサイズでは発売されず、
下記の小さな人形しか存在しない。

マグマ星人
全長約10センチ。
カラーバリエーションを3種確認。

チープなミニサイズ人形ですら
このカッコよさなのだから、
これがもし、
スタンダードサイズ人形として作られていたら・・・。
あぁ、残念。
 レッドギラス&ブラックギラス
 向かって左から3体は全て全長約10センチ、
 右端の人形のみ約12センチ。

 4体とも足の裏には
 “レッドギラス ブラックギラス” と刻まれている。
 双子の怪獣だから、
 どれがレッドギラス人形で
 どれがブラックギラス人形でもいいみたい(笑)。


記念すべき第1話に登場した敵であり、
『ウルトラマンレオ』に登場した全怪獣・全宇宙人の中でも
かなりインパクトの強い存在であるマグマ星人とこの双子怪獣を、なぜスタンダードサイズのソフビにしなかったのか。
ブルマァクのする事は、ホント、ようわからん(笑)。

とは言え、
実はバンダイのウルトラ怪獣シリーズのレオ怪獣も、
今でこそマグマ星人やババルウ星人の人形が存在するが、
つい5、6年くらい前までは、
ロンとサタンビートルという、迫力や存在感が微妙な怪獣2匹しか、商品化されていなかった。

ずっと以前に、
バンダイ本社へお邪魔させていただく機会があり、
その時に、思い切って
 
 「なんでレオ怪獣はこの2匹しか出さないンですか?」

とソフビの担当者の方に質問してみた。
すると、
 
 「私が自信持って選んでますけど、何か?」

と言われて、ムッとされてしまった。
自信を持っていらっしゃるのならどうしようもないが、
大好きな『ウルトラマンレオ』をなんだか馬鹿にされている気がして、
僕もムッとしてしまった(笑)。

『ウルトラマンレオ』を愛する人が
玩具メーカーのソフビ怪獣人形の担当になった時、
マグマ星人やレッドギラス&ブラックギラス、
あるいはガロンとリットル、ババルウ星人、円盤生物などを放っておいて、
ロンとサタンビートルしか商品化しない、
なんてありえないと思う。
番組が不人気だったため、作品が正しい評価を得られないまま、
ブルマァク時代からずっと、
ちゃんと番組を見た事がない人たちによって、
ファンを軽視した適当な商品開発が行われていたとしか、僕には思えない。

ツルク星人
全長約10センチ。

『ウルトラマンレオ』に登場した宇宙人は、
等身大から巨大化する際にその容姿が変貌するものが多い。
このツルク星人もその一人で、人形は等身大の時の姿。
人形にはなっていないが、
巨大化したツルク星人こそ、
冒頭で述べたダン隊長の名セリフを受けて、奮起したレオが倒した相手である。

ブルマァクのレオ怪獣のミニソフビは、
これらのほかに、
アンタレス、レンボラー、サタンビートル、バーミン星人の人形が存在するが、
滅多に市場に出ないし、出たとしても、驚くほど高価。
恥ずかしながら、僕は現物をまだ一度も見た事が無く、入手の道は果てしなく遠い。


MACの超兵器から、
マッキー1号(全長約19センチ)とマッキー2号(全長約18センチ)のソフビ。
ともにブルマァク製。
マッキー3号のソフビも存在するが、
宇宙のどこを飛んでいるのか、いまだに僕のコレクションルームには着陸してくれない(笑)。






ところで、
視聴率が低迷したまま、番組が1年間続くわけもなく、
1クール(13話)が終了した時点で、
『ウルトラマンレオ』は路線変更(俗に言う “テコ入れ”)が施されていた。
再放送を見ていた中学3年の時の僕はそれを知らなかったので、
或る朝、突然、
主題歌が、
前作『ウルトラマンタロウ』の主題歌を彷彿とさせる曲調のものに変わり、
お話の内容も、
番組そのものの象徴だと思っていた “特訓” が無くなってしまったので、驚いた。

大好きだった主題歌が変更され、
更には、
一度負けた相手を特訓の末に倒す、という熱いドラマも展開されなくなり、
完全に、“燃えろレオ! 燃えろ!オレ!” ではなくなってしまったわけで、
ガッカリだった。

新しい主題歌もカッコいい曲だったし、
歌っているヒデ夕木さんも、
『快傑ライオン丸』や『人造人間キカイダー』の主題歌を歌っていらっしゃった方なので
郷愁を感じる素敵な歌声を聴かせてくれていたのだけれど、
真夏さんが歌う最初の主題歌がすごく気に入っていただけに、とてもショックだった。
しかも、
路線変更した後は、
レオの弟・アストラや
冗談で創ったとしか思えない顔とスタイルをした、ウルトラマンキングなるウルトラ族の長老、
あるいは、
ウルトラの父やウルトラ兄弟までもが登場しだし、
幼児向けの内容に様変わりしていく事がはっきりとわかって、熱がスーッと醒めてしまった。


・・・まぁ、でも、
それはそれで結構楽しめたンだけど(笑)。


ブルマァク製 アストラ
向かって左から、
全長約19センチ、約15センチ、約11センチ。

タカトク製 アストラ
全長約13センチ。
タカトク版のアストラ人形は、
このサイズのみであったと思われる。



タカトク製 ウルトラマンキング
全長約13センチ。
4種のカラーバリエーションを確認。
ブルマァク製 ウルトラマンキング
全長約19センチ。


兄と弟のツーショット。
ウルトラ6兄弟と違って、
こちらは血のつながった本当の兄弟。

地球とウルトラの星の危機を救った活躍が認められ、
その功績を称えられた二人は、
劇中、正式にウルトラ兄弟に加えられる事になるのだが、
その際、
宇宙へ飛び立ったアストラにゲンが叫ぶ。

 「おーい、アストラーっ!
   俺たち、ウルトラ兄弟になったンだぞーっ!」

ちょっと幼稚っぽいけど(笑)、グッとくる素敵なラストシーン。




宇宙の魔法使い・プレッシャーによって
一寸法師のような大きさにされてしまったレオを
キングが
超能力を使って元の姿に戻した場面を、
イメージで再現してみました。
子供の頃にはまず不可能な、贅沢な遊びです(笑)。
これは、ブルマァクでもタカトクでもない、
メーカー不明の海賊版レオ人形。
全長約14センチ。
右手がパー、左手がグー・・・、ってマルサンの真似?(笑)



そんなわけで、
結局タロウみたいな作品になるのか、と
再び小馬鹿にした目線で見るようになってしまった『ウルトラマンレオ』の再放送だったが、
なんと、
そのままでは終わらなかった。
『ウルトラマンレオ』の真髄は、実はこの後にあったのだ。

最終の第4クール(第40話以降)に入ると、
想像を絶するとんでもない展開が待っていた。
円盤生物シルバーブルーメの襲来によって、
MACは、基地も兵器も全滅し、
隊員たちやダン隊長も行方不明(死亡したと考えるのが妥当)になってしまうのだ。
地球防衛チームが怪獣に滅ぼされて
主人公一人だけが生き残るなんて展開は前代未聞だし、
モロボシ・ダンまでやられてしまうなんて、信じられない事態だった。
しかも、それだけではない。
ゲンをとりまく友人たちとしてレギュラー出演していた地球人が、
トオル少年一人を残してみんな殺されてしまうのである。
もうムチャクチャだった。

 「なんじゃあ、この展開は・・・」

と、朝ごはんを食べる手が止まり、僕は唖然としてしまった。

その、嫌悪感さえを覚えそうな激しいストーリーは、
初期の、ゲンに非情な特訓を強いるダンが恐くてイヤだ、なんて印象とは
比べ物にならないくらい衝撃的なものであった。

番組開始からのレギュラー出演者たちが一気に殺されてしまう、
というのは、
まるで自分の友人・知人たちを突然失うようで、強烈なショックだったし、
また、それを、
その回の冒頭であっさり描いてしまっているところに、恐怖を感じた。
命の儚さや現実の冷たさ・厳しさが、胸に突き刺さった。

思いもよらない苛烈な展開を目の当たりにし、

 「やっぱりスゲェな、この番組は」

と、感服してしまった次第である。


子供に支持されなかったから路線変更したはずなのに、
最後は再びハード路線に戻して、
主人公・ゲンを更に辛い境遇に追い込み、
いや、ゲンだけじゃなく、
トオル少年をも、計り知れないほどの悲しみと孤独の中に突き落とし、
二人がそれを乗り越えてたくましく生きていこうとする姿を描いて、

 “生きる厳しさや哀しさを鮮烈に謳う”

というテーマを貫き通す姿勢を見せたところに、
円谷プロのプライドを感じた。
創り手・表現者の生理として、僕は大いに支持したい。

この最終クールは、
子供に媚び、視聴率を上げて目先の評価を得る事よりも、
魂のこもったメッセージを視聴者に伝える事を優先した、誇り高いものだと僕は思う。
そして、それが、
ウルトラシリーズが終了する事に腹を括った円谷プロが、
それまでウルトラシリーズを愛してくれた子供たちに見せた “誠意” であった気がしてならない。

割り算の答えの “余り” のようなイメージ、というのは大きな誤りである。
円谷プロのウルトラシリーズは、
『ウルトラマンレオ』をもってきれいに割り切れて完結したのであり、
『ウルトラマンレオ』こそ、
怪獣ブームの終幕・ウルトラシリーズの最終作に相応しい、意義ある作品であったと思う。


自分の人生を生きるのは自分である。
どんなに辛く悲しい事が起きても、それが自分の人生なのだから、
自分の力で進んでいくしかない。
誰も助けてくれないし、泣いていても何も変わらない。
涙では、
地球どころか、自分自身すら救えないのである。

 燃えろ、レオ!
 燃えろ、オレ!

そう心の中で歌いながら、僕は生きている。





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