真水稔生の『ソフビ大好き!』


第50回 「モスラの怨念」  2008.3

僕はモスラが恐い。
正確に言うと、モスラの人形が恐い。

昭和36年の『モスラ』から平成16年の『ゴジラ FINAL WARS』まで、
十数本にもおよぶこれまでの出演映画の中で
ただの一度も“敵役”になった事がない “平和の守り神” の人形が
なぜ恐いのか、というと、
それは、
或る “怨念” を感じるからである。

小学1年生の夏休みの或る日、
友達が「虫捕りに行こう」と呼びに来たので一緒に出かけたのだが、
僕は、バッタやカマキリを追いかけるのに夢中になり、
その草むらに捨ててあったガラスの板を誤って踏み、足を切ってしまった。

パリンというガラスの割れる音の後、
なんとなく違和感を覚えてふと見た左足の、あのショッキングな傷口の様子が忘れられない。
足首の辺りの外側が
横長に切れてパックリと開き、薄桃色の肉が見えていた。

 なんだこれは、どうしたンだ?

と思った瞬間、
そこから真っ赤な血が大量に溢れ出てきた。

傷の痛みよりも、その視覚が受けた衝撃が大きく、僕は恐くて泣き喚いた。
驚いた友達が近所の人を呼びに行き、僕は病院へ運ばれた。
何針も縫う大ケガだった。

 虫のたたり、モスラの怨念だ・・・、

と僕は思った。

子供の頃、
昆虫や爬虫類などが大好きだった僕は、
草むらにバッタやカマキリを捕まえに行ったり、
田んぼにザリガニやカエルを捕まえに行ったり、
林にカブトムシやクワガタを捕まえに行ったり、
そんな事をしょっちゅうやっていた。
で、
その日は出かける前に怪獣の人形で遊んでいて、
友達が呼びにきた時、
ちょうど手にしていたのがモスラ人形だったのだが、
虫捕りに出かけるためにダンボール箱(当時の僕のオモチャ箱)に片付けた時、
そのモスラ人形の複眼が偶然目にとまり、なんだか睨まれた気がした。
その時は
それほど気にならなかったのだが、
病院で手当てを受けている最中に、なぜかそのモスラ人形の複眼が頭の中に浮かんだ。

 昆虫たちを捕まえ続けていた事の報いだ、
 自然界を代表してモスラが罰を当てたンだ、

僕はそう思った。

今でもモスラ人形の目を見ると、
ケガした時のあの衝撃的な傷口の映像を思い出すのと同時に、
僕に捕まえられて虫かごに入れられた虫たちの “怨念” を感じてしまうので、
ゾッとするほど恐くなるのだ。



               恐い恐いと言いながら、3種も揃えてしまった(笑)モスラ人形。
               全長約18センチ、幅約30センチ。
               上の2体がマルサン製、下はブルマァク製。
               どの人形も、色彩が美しく、造形もよくまとまっていて、カッコいい。
            
               ただ、残念なのは、
               ブルマァク製のものは背中に大きくメーカーのロゴが刻印されている事。
               完全にその部分のモールドは失われてしまっていて、
               多くのソフビ愛好家を嘆かせている。

               マルサンの型を流用し、
               それに自社の刻印をこんなにデカデカと
               人形の形体すら無視して無遠慮に入れてしまうところが、
               なんともブルマァク。
               大味な社風と当時の勢いを物語るものではあるが、
               やはり、あまりにも無神経であり、趣に欠ける。残念だ。




また、モスラ人形は、
恐いだけではなく、辛く恥ずかしい記憶もよみがえらせてくれる。

夏休みが終わり新学期になっても、その足のケガは治っていなかったので、
僕は、母親の押す乳母車に乗り学校へ通う事になった。

包帯をグルグル巻いた片足を前に投げ出した体勢で乳母車に乗せられ、
通学路を行くのである。
その事自体は、ケガしていて仕方がない事なので、別に辛くも恥ずかしくもなかったのだが、
問題は、
歩けない状態で過ごす学校生活だった。
或る日、その足のケガがもとで、
人生の記憶から消去したいほどの出来事が、学校で起こってしまうのである。

それは、体育の時間だった。
当然僕は運動場に出て授業を受けられないので、
たった一人、教室で教科書を読まされる事になった。

みんなが体操服に着替えて運動場へ出て15分くらい過ぎた頃、
便意が襲ってきた。
その日は朝からお腹の調子が悪く、いわゆる “ゆるい” 状態だったのだ。

いつもオシッコをしに行く時のように、
壁で体を支えながら片足で跳ねてトイレへ行こうとしたのだが、
激しい便意のせいでなかなか進まない。
なのに便意の方は容赦無しに加速してくる。

僕はあぶら汗を流しながら、歯を食いしばり、進んだ。
ありったけの力で肛門を締め、何かにすがるような思いでお腹に手を当て、必死で進んだ。

でも、駄目だった。
トイレまであと5メートルくらいの所で、力尽きた。
そう、僕は漏らしてしまったのだ。

たまたま通りかかったよそのクラスの先生に発見され、
トイレまで連れてってもらったが、
手洗い場で汚れたパンツを洗っている時、
背後からその先生が、
 
 「そんなケガをしてるのに
     どうして学校へ来てるンだ?
                 はやく帰れ!」

と怒鳴ってきた。
明らかに棘のある、敵意さえ感じる口調だった。

まぁ、後から考えれば、
その先生も、
忙しい最中によそのクラスの生徒(しかも糞まみれの)の世話をさせられ
イラついていたのだろうが、
その時の僕は、とても傷ついた。

足をケガして歩けないのに頑張って学校に来ている事を
先生たちからは褒めてもらえるもの、と思い込んでいたので、
怒られた事にも、
“帰れ” という予想外の言葉にも、驚いた。

立派な大人だと信頼していた学校の先生から、
まるで、「お前、汚いからあっち行け!」とでも言われたような、そんな気がして、
ひどくショックを受けたのである。
涙がとめどなく流れてきた。

その後、呼び出された母親が迎えに来て、僕は早退した。
とても悔しかった。
帰り道も僕は、
乳母車を押す母親に気づかれないように(気づいてたかもしれないけど)、ずっと泣いていた。


だから僕は、モスラの人形を見ると、
足をケガした時の恐怖とともに、その辛く恥ずかしい出来事の記憶もよみがえり、
とても暗く不愉快な気持ちになるのである。

じゃあ、なぜそんな不吉な人形を大切にコレクションしているのか、という事になると思うが、
その忌まわしい記憶の中にも、
実は僕の心を救ってくれるものもあるのだ。それも二つも。

ひとつは、
“ウンコ漏らし” という事で絶対いじめられると思いながら登校した翌日、
クラスメイトが優しく僕を迎え入れてくれた事。

ケガで自由に動けない僕を、
みんなが常に気遣ってくれるようになった。
朝礼の時、
理科室や音楽室への移動の時、
休み時間、
給食の時間・・・、
あらゆる時と場所で、僕を守ってくれた。

オシッコに行く時も、
クラスメイトが二人がかりで肩を貸してくれたりして、連れて行ってくれるようになった。
危なっかしいけど、すごく嬉しかった。
幼心に、“思いやり” という言葉の意味を実感した。

何年か経ってから聞いたのだが、
 
 「真水くんの粗相の件で、クラスのみんなが団結した」

と、担任の先生が懇談会か何かの時に母親に言ったそうである。

僕はその話を聞いて以来、
『三大怪獣 地球最大の決戦』という映画が特別な存在になってしまった。
なぜかというと、
モスラの幼虫の

 「いっしょに協力してキングギドラを倒そう」

という呼びかけを拒否していたゴジラとラドンが、
単身キングギドラに立ち向かい必死で戦うモスラの幼虫の姿に心動かされ、
団結してキングギドラと戦いだすシーンがあるからである。

僕はそれをビデオ等で見るたび、
“モスラ”、そして “団結” というキーワードから
自分の “ウンコ漏らし事件” を思い出だしてしまい、
恥ずかしさや悔しさと同時に
クラスメイトの “思いやり” も胸によみがえる、という、なんとも妙な気持ちになるのだ。

もうひとつの救いは、
そのケガのおかげで、母親の押す乳母車に乗っている記憶が残っている事。

一般に、
乳母車に乗せられる時期は赤ン坊の頃なので、
普通の大人には乳母車に乗っていた時の記憶は残っていないと思う。
でも、僕ははっきりと憶えているのだ。
乳母車の振動とともに母親の愛情が体中に伝わってきて、
なんだか温かく、とても安らかな気分だった。

“モスラ” という名前の由来が、
蛾(Moth)の形状をしているからだけではなく、
守護神ゆえに “母性” の象徴として、母(Mother)とも掛けてある事を知り、
毎日乳母車を押してくれていたそんな母親の姿まで、
僕の中ではモスラと結びついてしまうのだ。

そんなわけで、
僕にとってモスラという怪獣は、
足のケガにまつわる思い出すべてを表象する存在になってしまっているのである。
だから、
そんな怪獣の人形は、言ってみればモニュメント。
自分の人生から決して切り離せぬものなのである。



月日が流れて、
高校に入学して初めて校歌を歌わされた時、
小学校や中学校で歌わされてきた無味乾燥でかったるいものとは明らかに一線を画す、
“垢抜けた気品” のようなものをそのメロディに感じた僕は、
楽譜の作曲者の欄をチェックした。
そして驚いた。
作曲者は、古関裕而先生であったのだ。

古関裕而先生と言えば、
戦前・戦中・戦後を通して活躍された、日本を代表する大作曲家。
子供の頃見ていた『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員でもあったから顔も知っていたし、
作られた楽曲で知っているものも何曲かあったので、

 やっぱり有名な作曲家が作ったメロディは一味違うなぁ、

と感服した。

そして何より、
古関裕而先生と言えば、『モスラの歌』の作曲者である。
そう、
ザ・ピーナッツから長澤まさみさんまでもが歌った、あの有名な『モスラの歌』の作曲者なのだ。
自分の通う高校の校歌を作った人と『モスラの歌』を作った人が同じ、
という事実に、
僕は怪獣世代としてなんだか誇らしく嬉しい気持ちになったが、
すぐに、恐くも思えた。
僕の人生がずっとモスラに監視されているような気がして、
呪縛のようなものを感じたからである。

キリスト教の学校だったので、校歌はいつもチャペルの中で歌わされる。
なので僕は、
高校生活3年間、校歌を歌う時には、
常にモスラ人形の複眼を思い出し、神様や超自然に畏怖しながら、震える気持ちで歌っていた。


ソフビ怪獣人形のコレクターとなった今、
モスラ人形はコレクションのショーケースから、僕の事を見ている。
僕の生活態度や行動を、
戒めの化身としてジッと見ている気がするのだ。

いや、今に限った事ではない。
虫捕りに夢中な子供の頃も
チャペルで校歌を歌っている高校生の時も
ずっとずっと、
僕は、どこかでモスラ人形に見張られていた気がする。

僕はモスラが恐い。




                  前回へ       目次へ       次回へ