真水稔生の『ソフビ大好き!』


第32回 「カネゴン人形はなぜ笑っているのか」  2006.9

コメディタッチで描かれたファンタジーなのに
“恐怖” を感じる不思議な作品、『カネゴンの繭』。
日本の特撮テレビドラマの原点である『ウルトラQ』の、第15話だ。

もしも自然界のバランスが崩れたら・・・、
という想定の下、
日常に起きる異変や怪事件を描いた全28話の中で、
おそらく多くの人がTOP3に挙げるであろうこの名エピソードは、
異常なまでにお金に執着していた少年が
不思議な繭に飲み込まれて守銭奴の権化獣・カネゴンになってしまう、という、
拝金主義を風刺した寓話である。

ラストでは、
少年のお金集めに夢中な言動を戒めていた両親までもがカネゴンになってしまい、

 “人間誰もがカネゴンになりうる”

という痛烈なメッセージが、視聴者に突き付けられる。

お金のためにモラルを捨てる人間の姿を描いた作品では、
僕が生まれる前の映画だけど、
若尾文子さんや山岡久乃さんが出演された『しとやかな獣』という名作がまず頭に浮かぶ。
脚本も演出も、
役者の芝居も存在感も、
何もかもが最高に素晴らしい作品だった。

でも、
そんな、大人が観る映画にではなく、
オモチャで無邪気に遊んでいるような年頃の子供が観るテレビ番組に、
“資本主義の行き着く先の風刺” などというテーマを持ち込んだところに、『ウルトラQ』の凄さがある。
お金に溺れる人間の悲哀を
“怪獣” という夢の生き物を使って表現する、という着想も巧い。

脚本は、
多くの映画やテレビドラマを手がけた山田正弘さん。詩人でもあった。
特撮ファンには、
『ウルトラマン』の元となる『科学特捜隊ベムラー』の企画を金城哲夫さんと共に練り上げた人、
と言った方がピンとくるかもしれない。
ウルトラシリーズ以外でも『快獣ブースカ』や『マイティジャック』などで多彩な脚本を多く残している。

山田さんの訃報が届いた半年後の今年の2月、
山田さんを追うかのように亡くなった同じく脚本家の佐々木守さんも、

 「山田さんが書いたカネゴンのお話には強烈な衝撃を受けた」

と生前おっしゃっていた。
『カネゴンの繭』は、同業者をも唸らせた傑作なのである。

そんな傑作を、
懐かしさに惹かれて今でもビデオ等で時々観るのだが、
恥ずかしいような、情けないような、
なんとも居心地の悪い気分になってしまう。
子供の時『カネゴンの繭』を見た僕が大人になった現在、
その『カネゴンの繭』に皮肉られた通りの社会の中で生きているからだ。

「儲けて何が悪い」
とか
「金を持っているヤツが偉い」
とか、
そんな言葉を
人前で平然と言える下品な人たちが実際に現れ、
株だの買収だのと世間が散々騒がしくなったあげくに、
なんと、日銀総裁までもがインサイダー取引にからんでくる始末。

本当に、世の中カネゴンだらけになってしまった気がする。

『カネゴンの繭』を書いた山田さんや、
『カネゴンの繭』に影響を受けた佐々木さんは、
現在のような世の中の状況を
どこまでリアルに想像していただろう。



フォーク歌手の松山千春さんが、
昔、テレビ番組のインタビューの中で、

 「歌を歌う事が俺の仕事だけど、俺は金のためには歌いたくないんだなぁ」

とおっしゃっていた事を思い出す。

頭と体を使って、そして心をもって労働する。それが仕事。
お金というのは、その報酬、つまり仕事の副産物なのだから、
結果としてお金持ちになっている人は、
それだけ素晴らしい仕事をした人、それだけ一生懸命働いた人、なのである。
そうでなければならない。

松山千春さんはヒット曲も何曲かあるし、
30年近く日本の音楽界の第一線で活躍してきた僕らの世代のスターだから、
お金もいっぱい稼いだと思うが、
松山千春さんが凄いのは、
お金をいっぱい稼いだからではなくて、
一生懸命いい歌を作って歌って、多くの人々を感動させたからである。
だから僕は、
松山千春さんのような人をカッコいいと思う。

よって、
松山千春さんのような人とは逆の、
何よりもお金儲けを優先に考えてる事が言動に表れてるような人は、
当然ながら、カッコ悪いと思う。
 
 「儲けて何が悪い!?」

なんて言い草は、
僕に言わせれば、
目の前で脱糞した男が、

 「クソして何が悪い」

って逆ギレしているようなもので、
目をそむけて鼻をつまみたいほど不快な言動である。
よくもまぁ恥ずかしげもなくそんな事を・・・、と呆れてしまう。
別に悪くはないけど、
人前で堂々として威張る事でもないでしょ?って話だ。

だいたい、
自由主義経済の中、「儲けて悪い」なんて誰も言わないし思っていない。
松下幸之助さんや本多宗一郎さんを否定する人なんていないのだから。

ぼろいお金儲けの事ばかり考えてるせいで神経が麻痺していると、
自分が非難される理由すら正しく理解出来ないらしい。
実に情けないと思う。


だけど、
驚く事に、今の子供や若者は違うようだ。
お金持ちならそれだけで憧れの対象であり、下品な言動もまったく気にならないらしい。

 「金を持っているヤツが偉い」

などという発言を、否定しないのである。

 「人の心はお金で買える」

とか、

 「女はお金についてくる」

とか、
そんな哀しい事を誇らしげに言うようなダサい人を、カッコ悪いと思わないのである。
むしろカッコいいと思って支持するのだ。
まったくもって信じ難い。

人生において、
興味や関心が、仕事の内容とか生き様とかよりも、
お金をたくさん稼いだかどうかにあるらしい。

もはや、夢は、
「野球選手になりたい」とか「歌手になりたい」とかではなく、
「お金持ちになりたい」なのである。
お金儲けが人生の目標みたくなっているのだ。

・・・なんて病んだ事態なのだろう。


お金は確かに必要である。
お金がなければ生きていけない。
誰でもお金は欲しい。いくらあっても困りはしない。
お金さえあればなんとかなる事は世の中たくさんある。それは間違いない。

でも、
だからといってお金が全てでは決してない。
お金で手に入る人の心は、
所詮 “お金で買える程度の心” にしか過ぎないし、
お金で手に入る女は、
所詮 “お金についてくるような女” でしかない。
本人が、
そんな砂上の楼閣のような幸せで満足なのは勝手だが、
それが哀しい人間の未熟な考えである事くらいは
認識しておいてもらいたいものだ。
そうでないと、
あまりにも愚かである。

お金さえあれば何でも手に入る、なんて、
日本が豊かな恵まれた国であるがゆえの単なる錯覚に過ぎないのだから。

誰だって明るく楽しく生きていきたい。
が、仮にお金がいっぱい手元にあったとしても、その望みが叶うとは限らない。
人生を左右するのはお金ではない。
いかに心豊かに生きるか、である。
“お金” を言い訳に、荒んだ心を正当化して生きてくような事はしたくない。そんなのみっともない。
 
 「お前はお金で苦労した事がないから、そんな甘っちょろい綺麗事が言えるンだ」

と反論する人もいるだろう。
でも、
そんなのは、僕に言わせれば、
自分の品の無さや非常識さを、“お金” を言い訳にして誤魔化してるだけだ。
「お金、お金」と
見栄も体裁もなく追い求める姿を卑しいと思って恥じる感覚を持たない神経は、
僕には理解出来ない。

決して裕福な家庭ではなかったが、
働き者だった両親のおかげで、
御飯もちゃんと食べられたし、オモチャも友達と同じくらいは買ってもらえたし、大学にも行かせてもらえた。
確かに僕は
それほどお金で苦労した経験はないのかもしれない(現在は苦労しているが(涙))。
だけど、
御飯もオモチャも大学も、
単にお金があったから与えてもらえたものではなく、
両親の愛情があったからこそ与えてもらえたものである。

お金があったから得られた、と単純に解釈して日々を過ごすのではなく、
両親の愛情や生活環境に感謝し、
命のありがたみを理解しながら僕は育った。なんでもない当たり前の話だ。
自分の暮らしは、お金だけで支えられているわけではない。

だから、
お金がたくさんあるからといって、それだけで幸せだとは思わないし、思えない。
お金持ちだからといって、それだけでその人に憧れたりもしない。
ましてや
そのお金持ちが “お金が全て” 的発言を偉そうにすれば、
憧れないどころか、嫌悪感をもよおし、軽蔑さえしたくなる。
支持したり擁護したりなんて事、とても出来ない。

そんな、
お金に人格を支配されたようなみっともない人を、
今の子供や若者が
どうして哀れだとも卑しいとも思わないのか、
僕にはとっても不思議なのである。
まさに、
“ウルトラQ(超クエスチョン)” だ。

どんなに暮らしが貧しくても、
自分自身がカネゴンになる事だけには、僕は全力で抵抗したい。
 
 「世の中お金が全てではない!」

と、声高らかに唱えていきたい。

子供を持つ親としても、これはとっても大事な事だ。
もしも
自分の子供が「お金儲けが第一」とか「お金があれば何でも手に入る」とか言い出したら、
命をかけて、魂を込めて、
それが浅はかな間違いである事を説いてあげたい。説かねばならない。

すぐに壊れるような建物を “丈夫な建物” と偽り、
他人を騙してまでお金を儲けようとした人がいた “耐震偽装マンション事件” を見てもわかる通り、
拝金主義はやがて、
他人を傷つけてでも富を得よう、自分さえ儲かれば他人は命すら落としてもかまわない、という発想につながる。
恐ろしい事だ。

金で振りまわされる生活は、人々から良心も道徳心も正義感も誠実さも気力も奪い、
ついには社会を滅亡へと追い込む。
人間の集まりが社会なのだから、人間が人間でなくなったら社会は社会でなくなる。

最近、話題になった『国家の品格』というベストセラーにも、
“日本人が「情緒と形」を取り戻さねば国が滅びる”
とある。
“心” をなくしてはいけないのだ。

貧乏人の嫉みや負け惜しみではない。
また、合法か非合法か、の問題でもない。
倫理の問題である。

たとえそのお金儲けが法律に違反していなくても、
心を無視して合理主義・利益第一主義に走り続ければ、
いつか必ず人は進むべき道を踏み外す。

自分自身がカネゴンになる事を「仕方がない」と受け入れていては、子供にそれを伝えられない。
僕はカネゴンになんか絶対なりたくない。
なってはいけないのである。



お金で空や海が買えのるか、お金で健康や愛が買えるのか、
なんて話が大きすぎて現実感がないのなら、
たとえば、
僕が蒐集しているソフビ怪獣人形。
マルサンやブルマァクのものはプレミアがついているので、
出逢ったとしても入手するにはお金がたくさん要る。

コレクターになって20年近くになるが、
コレクション充実のため、寝る間を惜しんでアルバイトしたり食費を切り詰めたりしながら
僕が一生懸命お金を貯めてる隣で、
お金に物を言わせて簡単にソフビを入手していくお金持ちな人達を多く見てきた。
その人たちのコレクションは、確かに瞬く間に増えていった。
だが、
そのほとんどの人が、現在ではコレクションを手放している。別に生活が苦しいわけでもないのに。

僕に言わせれば、
そもそも最初から間違っているのだ。

その人たちは
お金をたくさん持ってる事が災いしてか、
自分の好きな怪獣とか思い入れのある人形とかではなく、高価な値段がついたものを欲しがり、入手していく。
高価な値段をつけたのは、
もちろん自分ではなく他人である。
つまり、
自分がいいと思うものよりも、
他人が評価したものを優先して買うのである。それも大金を叩いて。

自分の好みがイニシアティヴをとらない趣味の世界ほど、無駄で無意味なものはない。
そんなの楽しいはずがない。
すぐに飽きて手放してしまうのも必然的な流れである。

その人たちがお金で手に入れたものは、
ひとときのお戯れによる勘違いの満足感のみ。
ソフビは買えても、
ソフビを鑑賞する感性やソフビに価値を見出す力までは買えない。
お金があるだけでは、
人として生きる意味さえ持てない、という事である。


聖書の中にこんな言葉がある。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。
     見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」
                            (コリント人への第二の手紙 第4章:18)

これは、
クリスチャンでない僕にも簡単に理解出来る、“当たり前の事” である。
“見えるもの” を “お金で買えるもの” 、
“見えないもの” を “お金で買えないもの” に、
それぞれ置き換えてみれば、わかりやすい。

心を豊かにするものは、お金ではないのだ。

自分自身がそれほど立派な人間だとは決して言わないが、
少なくとも、
良さもわからぬ物を買ってすぐまた手放してお金に換える、なんていう事をしない分だけでも、
信用してもらっていいのではないか、と思う。
心を豊かにするものがお金ではない、っていう “当たり前の事” は、知ってるわけだから。


『ウルトラQ』はバランスが崩れた歪んだ世界の物語である。
その歪んだ世界の物語通りの現代社会を嘆く気持ちもなく肯定するのであれば、
それは心も歪んでいる証拠ではないか。

気づかない方がどうかしてる。
否定しないなんて僕には信じられない。

お金が全て、なんて考え方、僕は絶対に嫌だ。
間違ってるし、下品でダサくてカッコ悪い。

カネゴンになんか絶対なりたくない。
「お金さえあれば・・・」なんて、僕は意地でも言わないゾ。


そういえば先日、
愛の無いマニアが気まぐれで手放したのか、どなたかのやむにやまれぬ生活の事情か、
理由はよくわからないけど、
なんとマルサンのファーストゴメスが300万円〜でヤフオクに出ていた。

欲しいなぁ。
お金さえあればなぁ・・・(笑)。




冗談はさておき、
カネゴンにはなりたくないけれども、カネゴンは好きな怪獣である。

「頭は金入れ、体は火星人、目はお金の方へ向いてピョコ〜ンと2本飛び出し、
  口が財布のジッパーなら体は銅貨の銅みたいに赤光りする怪物で、
     ゴジラみたいな尻尾にはギザまでついてるンだぞォ〜」

と、劇中で語られているその秀逸なデザインとユニークなキャラクターは、
数あるウルトラ怪獣の中でも屈指の出来。

『ウルトラQ』を観た事がない人でも
その存在を知っているという、
日本ではゴジラと並ぶ高い知名度の人気怪獣だが、
単に、恐竜や動物の変形にとどまらず、
人間の心の具現化といった部分にまで “怪獣” という生き物の解釈を広めた功績を考えると、
ゴジラ以上に、
その存在に価値や意義があったような気もする。

また、
人間の子供が変身してしまった等身大の怪獣、という事で感情移入しやすかったのも、
テレビを見ていた僕らにカネゴンが支持された大きな要因だと思うが、
この、
笑顔で 「やぁ、こんにちは!」って挨拶しているようなマルサンのソフビ人形は、
カネゴンの
そんな親しみやすい性質がわかりやすく表現された造形である。









発売時期によってカラーリングが異なるが、
どのタイプも、成形色と塗装色が絶妙に絡み合って、
実に味わい深い。

だけど近頃は、
この笑顔には別の意味が宿っているような気もしてきた。
お金だけが全て、になってしまう人間の愚かさを嘲笑っているのかもしれない、と思えてしまうのだ。

そもそもカネゴンは “お金が全て” という生き方が哀しい事を知っていた。
お金が大好きで、お金を食べ続けないと死んでしまう自分を、
カネゴンは嘆き悲しみ泣いていた。
「人間に戻りたい」と、涙を流してた。
だから、
自分と同じ運命を辿ろうする人間の愚かさを、身をもって理解しているのである。
この笑顔が、そんなカネゴンの本質を物語っている気がする。

マルサンの造形は、やはり奥が深い。
どんなにリアルなフィギュアが作られようと、このマルサンのカネゴン人形は越えられないだろう。

親しみやすい笑顔の裏に痛烈な皮肉が込められているかもしれない、という感覚は、
冒頭に述べた、
“コメディタッチなのになぜか恐怖を感じる” という、『カネゴンの繭』のお話の味わいそのもの。

棘の数や位置をしっかりとコピーした実物そっくりのフィギュアでは、
カネゴンの外形の素晴らしさは堪能出来ても、このような、物語の巧みさは味わえない。
リアルにしない事で、
かえってカネゴンの表象を逆にリアルに表現している、マルサンのこの造形センスは凄い。

あくまでも玩具会社が主導権を持ち、
実物の怪獣にそっくりのリアルな人形を作る必要がなかった時代だったから、
偶然生み出されたものかもしれないけど、
このカネゴン人形が、
『カネゴンの繭』のお話そのものを思い起こさせ、
人を憐れみ、世をはかなみ、時として僕ら人間に何かを語りだすのは、
間違いなく、
マルサンがオモチャ本来の想像力を信じて造形し、そして商品化したからである。

ただ似せたわけでもなく、
ただ可愛らしいお人形さんを作ったわけでもない。
マルサンの偉大さが、
カネゴン人形の笑顔にある。

だが、この笑顔を、
前述したような “愚かな人間への嘲笑” にしてはならない。
それは僕らの責任だ。

本来、オモチャは夢のあるものである。
それを手にする人間に心がなければ、オモチャの夢は消えてしまう。 
大人になってからこのカネゴン人形を手にする者は、
オモチャの神様に試されているのかもしれないのだ。

この人形の笑顔に、素直に笑顔を返せる人間でいたい。
世の中きれい事だけでは生きていけないけど、きれい事を素直にきれいと思える人間でいたい。
お金儲けなんかに執着せず(元よりお金儲けをする知恵や才能なんか無いけど(笑))、
“まじめに生きて馬鹿を見る事はない” とか
“やさしい気持ちで生きて裏切られる事はない” とか
そんな信条で、
僕は一生懸命に生きていきたい。
そうすれば、カネゴンの繭に飲み込まれずに済む。人間でいられる。

幼い頃『ウルトラQ』を見ていた世代として、
その架空のお話に皮肉られたような現実で生きるのは嫌だし、
ソフビ怪獣人形で遊んだ世代として、
このカネゴン人形の笑顔を “愚かな人間への嘲笑” にしたくないのである。


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