第168回「過剰のススメ」 2018.1
Aさん「こないだの朝、こいつ(Bさんのこと)、
“欽ちゃん走り” で地下鉄に飛び乗ってきてさぁ・・・」
Bさん「“欽ちゃん走り” なんかしてねェわ!」
Cさん「出た!まただ。 お前(Aさんのこと)は、すぐそうやってウソをつく!」
これは、
先日、友人と行った居酒屋で
何気なく耳に入ってきた、隣のテーブルの会話です。
仕事帰りのサラリーマンと思われる、
30代後半~40代前半くらいの男性3人組でした。
僕は、Aさんが気の毒でなりませんでした。
というのも、
BさんやCさんが、
漫才の “ツッコミ” みたいな感じで対応していたら、
とても愉快なやりとりだったと思うのですが、
二人とも、真顔で、
Aさんを厳しく批判するかのごとく、キレ気味に言葉を発していたので、
隣のテーブルにいる僕らまで居心地悪くなってしまうような、
変な空気になっていたからです。
“欽ちゃん走り” で電車に飛び乗る人なんて
実際にはいるわけないのですから、
“駆け込み乗車” してきたBさんの事を、
Aさんが、
おもしろおかしく話して、その場を盛り上げようとしたのは、明らか。
BさんもCさんも、
なんでそれが解らないのでしょうか。
大の大人がムキになって否定する事じゃないし、
“ウソつき呼ばわり” する神経も、僕には皆目解かりません。
それに、
AさんはBさんを侮辱しようとしたわけではなく、
“欽ちゃん走り” という表現で、
その地下鉄に乗り遅れたら会社に遅刻してしまうサラリーマンの悲哀や、
いい年した大人が必死の形相で走ってくる様子の滑稽さを、
“人生の讃歌” として伝えてBさんを言祝ぎ、
この世で精一杯に生きていく事の素晴らしさと幸せを、
仲間と分かち合おうとしたンだと思うンですけどねぇ・・・。
・・・まぁ、
そこまでは思わなくても(苦笑)、
冗談を言って楽しい酒の席にしようしている同僚の意思くらい、
酌んであげてほしいものです。
怒るトコじゃないですよ、とにかく。
ホント、Aさんが可哀想でした。
・・・と、なんで、
見ず知らずのAさんにそこまで感情移入するのかといいますと、
実は、
何を隠そう、この僕も、よく “話を盛る” からです。
たわいもない世間話やちょっとした雑談でも、
つい、話を盛ってしまいます。
飲んでる席なら、尚更。
それが “礼儀” とさえ思っています。
だって、
その方が楽しいじゃないですか。
なんでもない事をそのまま話したって、なんでもないまま、なンですから。
もちろん、
相手を騙すつもりなど毛頭無いので、
話を大袈裟に膨らましている事が判るよう配慮して、の脚色。
サラリーマンの “駆け込み乗車” を
“欽ちゃん走り” と伝えたAさんの表現なんて、まさにそれです。
なんていうンですかねぇ・・・、
自分がその場所・その時間に関わる以上、楽しくしたいンですよね。
それは、
“サービス精神” なんていう、そんなおこがましい事じゃなくて、
生理的なもの。
子供の頃からそうだったンです。
物事に、必ず、
“自分の味” みたいなものを入れたいンですよね、目立つように。
つまり、
すでに在るものをそのまま、ってのがイヤなンです。
役者になったのも、コレクターになったのも、それが根源。
決められた選択肢の中から生き方を選んで、世の中に自分を合わせるのではなく、
自分の感性で生き方を決めて、そんな自分に世の中を合わせたいンです。
せっかく、
こんなに平和な、国と時代に生まれてきて、
無事に暮らしているのですから、自由に楽しみたいンです、人生を。
そこで、ふと、こんな事を思いました。
この性分は、
物心付いた頃からマルサンのソフビ人形がそばにあって、
それで自由に夢見て空想して、楽しく遊んで育ったからではないか・・・、
と。
怪獣を
そのまま怪獣人形にしたのではなく、
自社独自のセンスである “過剰な表現” でアレンジして、
遊べる怪獣人形にしたマルサンソフビが、
映画やテレビで観た実物の怪獣とはちょっと違った形をしている事は、
幼い子供であった当時から気づいてはいましたが、
それを不満には感じませんでした。
オモチャはこういうものだと思っていたし、
そういう時代でしたし、
何より、
その “過剰な表現” が、心地良かったからです。
どこへ行く時も持ち歩いたり、抱いて寝たりしていたのが、その証拠。
当たり前だったから特に意識しなかっただけで、
すでに在るものを自身のセンスで楽しく表現する、
という事の意義や価値を、
マルサンソフビの “過剰な表現” に、僕は植えつけられた気がするンです。
話を盛ろうとするのも、
あえて歪んで捻じれた人生を歩もうとするのも(苦笑)、
みんな、
こいつらのせいなンです、きっと。
ミニラ 実物のミニラと異なり、 なぜか鼻がつぶれていて、なぜか歯がボロボロ。 でも、 これが僕のミニラ。これだからこそ、ミニラ。 50歳を過ぎた今、 僕は、この、 退屈回避の為わざとイビツにしてある顔の造形から、 世の中と向き合う自身の人生のスタンスさえ、感じています。 |
瞼も、二重どころか、三重、四重・・・、と過剰ですが、 このように、僕も同じ。 僕の、世の中と向き合うスタンスを感じるような造形なのですから、 その世の中を見つめる “目” が、僕のと似ているのは当然(笑)。 |
ミクラス 闘いを制する事が一度も無かった哀しきカプセル怪獣ではありますが、 敵に立ち向かう勇気と健気さは、 『ウルトラセブン』を観ていたすべての子供たちの胸に、熱く刻まれている事でしょう。 この人形の、 いかにも不器用そうな、短い腕と小さな握り拳は、それを強調して表しています。 と同時に、 たとえ子供の頃に思い描いたようなカッコいい大人にはなっていなくても、 人生において絶対に負けは認めない “意地” の必要性を僕に伝えている・・・、 そんなふうにも思います。 |
バンデラー 頭も胴体も、手足も尻尾も、 実物以上にヨレヨレに崩れているのに、 生き生きした活力を感じる、まさに、マルサンソフビの申し子。 |
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僕はこの人形を見る度、 体裁など一切気にせず、 自分の信じた道を突き進め、 やるならとことんやれ、 って言われている気がして、元気が出ます。 |
このように、
マルサンのソフビ怪獣人形たちは、
“過剰な表現” こそ、人生を楽しむ秘訣、
と教えてくれているンです、僕が子供の頃から、ずっと。
う~ん、
なんてアグレッシブでアバンギャルドなオモチャなのでしょう。 最高です。
・・・そうだ!
隣のテーブルの3人組の会話が耳に入ってしまったあの時、
ただAさんに心の中で同情するだけじゃなく、
自宅に戻ってコレクションケースからこれらマルサンソフビを持ち出してきて
BさんやCさんの目の前に差し出し、
「見よ! 知れ! 学べ! 」
って言って、
Aさんの真意が理解出来るよう、
“過剰な表現” をする事の面白さを説いてあげればよかったな(笑)。
まぁ、“欽ちゃん走り” 以上に通じなかったかもしれないけど・・・(苦笑)。